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2009年06月07日13:59

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(株)岩波映画製作所

ウィキペディアとはてなキーワードーとでは、その情報に多少の違いがあった。

ウィキペディアでは1949年の中谷研究室プロダクションの記述からあるが、岩波映画製作所としての発足は1950年からとしていいといえるはずで、従って、はてなキーワードでの情報を基に書く。

北海道大学低温研究室(当時)の中谷宇吉郎の提唱により、良心的な科学映画の製作を創立の精神として、発足。
岩波書店専務の小林勇、日本映画社キャメラマン小口貞三、共同通信記者羽仁進、 らによって、1950年 設立。 (1949年設立の中谷研究室プロダクションから引継ぎ) 写真家の名取洋之助が参加。 岩波書店の「岩波写真文庫」の編集撮影の多くを担当。
創立当時から1968年に小口貞三が社長に就任するまでの間、社長のポストは空席のまま、岩波書店専務の小林勇が代表取締役専務として実質経営していたが、岩波書店や岩波ホールとの資本関係はなかった。

1954年「教室の子供たち」(監督・羽仁進)
'58岩波写真文庫、終刊 '61「不良少年」(羽仁進)ーキネ旬日本映画第一位。 '63「ある機関助士」(監督・土本典昭)

教育関連や企業PR映画など、記録映画全般の製作をてがけるようになる。(「佐久間ダム」「法隆寺」など。「ある機関助士」は国鉄安全PR用企画だった。当時、蒸気機関車。)

テレビにおいても、「たのしい科学」「日本発見シリーズ」など、 教育科学番組の先鞭となる作品を製作。
1964年の、科学振興財団のテレビ局開局(東京12チャンネル。現テレビ東京) にあたり、良質な番組作品で協力した。

1998年、経営不振により倒産。 残された作品は、2000年に管財人から日立製作所へ売却された。


岩波映画、出身者たち。羽仁進、土本典昭、東陽一、黒木和雄、羽田澄子、諏訪淳、――監督。
鈴木達夫、奥村祐二(or祐治?)、金宇満司、――キャメラマン。
東松照明ー写真家。
清水邦夫ー演出家、劇作家。
田原総一郎。

ウィキペディアの岩波映画に、小川紳介の名はなかった。
しかし、小川紳介で検索してみると。
1959年に新世紀映画に入社、 1960年に岩波映画と助監督契約を結ぶ、'61東陽一・土本典昭らと「青の会」結成、'64年岩波映画との契約解消、とある。
→青の会が青林舎へ発展していったと思われる。?が??、要、継続調査。

東京12チャンネルが、科学振興財団の設立とは知らなかった。
田原総一郎は、岩波映画の後東京12チャンネルのディレクターになっている。
そして、ATGで製作した、唯一の本編劇場映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971年)は、清水邦夫との協同だった。 (確か、桃井かおりはこれでデビューしたんじゃなかったかな?)
清水邦夫が岩波映画出身者とは知らなかった。(?・・何やってたかは?要チェック!)
なるほどなぁ・・
φ(.. )
そういうことだったのかぁ、って感じ。

そういえば。
早稲田大学出身者も多い、かな?
清水邦夫と田原総一郎、 東陽一もだし、土本典昭は早稲田大学で全学連副委員長、'52年の早大事件の不法集会の責任を問われ文学部除籍、とある。
やっぱ早稲田でしょう!? (ナニガ?だけど)(*^_^*)
ちなみに。
羽仁進は、羽仁五郎の息子で自由学園(奥さんは左幸子。こりゃ有名だろう。?)。
小川紳介は、なんと東京都港区芝出身で国学院大卒。 で、なぁんで、成田空港建設反対三里塚闘争シリーズの後、山形県の田舎に引っ越し農業しながら映画を作ったのか、・・ ??

→→2006年12月3日に、前橋文学館で見た文化記録映画の監督、飯塚俊男氏は、前橋市生まれで小川プロダクション出身。 ミクシィ日記にアップしてある。
山形国際ドキュメンタリー映画祭は、小川紳介の提唱だったんだね。



これくらいで。
いやぁぁ〜〜〜〜、これ書くのに三時間以上かかってるよ。休みじゃなきゃやってられまへんでしたがな。(^^)v

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コメント

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