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2009年02月27日01:19

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山田典吾。2

ネタもとで違う、ってのは初監督作品。
昭和49年1974年、山田火砂子さんが現代ぷろに参加し『太陽の詩』より山田典吾さんは監督に、としているとこがあるけれど、現代ぷろのHP ではもっと前、
1963年の『日本海の歌』が初監督作品。
ついで、、と書いてきて、やはり「第二章」編にしようと思った。 現代ぷろの歴史と共に。


前にも書いたように、
現代ぷろだくしょんの設立は、昭和26.1951年。
設立メンバーに山村聰、森雅之ら。 当時山田典吾は35歳。
1953年『村八分』製作開始。 同年『蟹工船』。
1956年『真昼の暗黒』
『夜の鼓』'58、『太陽を射るもの』'61の後に、1963年『日本海の歌』 、ここで山田典吾は製作脚本監督。47歳。
'65『ベトナム平和への戦い』、 '72『ハンザキ大明神・ゴロスケの唄』 とひき続き製作脚本監督。
1974『太陽の詩』。ここから山田火砂子が現代ぷろに参加。 ――山田典吾は製作脚本、とあって、監督が誰なのか?どういうわけか記入なし。
そうして、1976年『はだしのゲン』から、毎年映画を発表していて、製作脚本監督、まさに大活躍! 1985年まで。
少なくとも、1982年の『ユッコの贈り物』まですべて製作脚本監督、一人三役。
現代ぷろを代表する作品がこの間に創られている。 『はだしのゲン』『はだしのゲン・涙の爆発』『春男の翔んだ空』『茗荷村見聞記』『はだしのゲン・ヒロシマの戦い』『裸の大将放浪記・山下清物語』『ユッコの贈り物』
'83『もうひとつの少年期』の監督は石山昭信、'84『白い町ヒロシマ』の脚本には新藤兼人が参加、'85『ママごめんねーあっこちゃんの日記』は再び一人三役。
1988年に『死線を越えてー賀川豊彦物語』。

1976年、山田典吾は60歳。つまり、58歳くらいで山田火砂子と結婚してることになり、良きパートナーを得て猛進してる、感じ。
私が参加してた『白い町ヒロシマ』の時は68歳だったわけだが、、 とてもとても!!
山田典吾最後の作品は、アニメの『キムの十字架』。1990年。
これは、『白い町ヒロシマ』で撮影の金徳哲氏からの企画と聞いている。

1996年『エンジェルがとんだ日』より山田火砂子が監督も兼任している。


山田典吾、1916.05.28 〜 1998.05.14
享年、82歳。

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