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2009年02月26日02:42

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山田典吾。

1916.05.28 〜 1998.05.14
山田典吾氏の業績等については、『現代ぷろだくしょん』との日記でもふれたし、現代ぷろだくしょんのHPでも判るから、ここでは省く。
私なりの雑感としたい。

私の記憶違いでなければ、山田典吾氏は東京神田の出身で、東宝でプロデューサーとしてキャリアを積んだ。
現代ぷろだくしょん設立後も、しばらくはプロデューサーだった。製作者として、『蟹工船』'53、『真昼の暗黒』'56、『夜の鼓』'58 。
1974年『太陽の詩』より、山田火砂子が現代ぷろだくしょんに参加し、山田典吾は監督に進出。以後、この夫婦コンビが続く。
―――と、ここまで書いてきて、進まない。

検索して調べたりしてはみたんだけど。
ネタもとで情報が違ってて、初監督作品がほんとはなんだったか確認とれないし、何よりも履歴がよく判んなかった。 映画製作に関わった作品がらみでならあるんだけど、、その前がワカラン。
東宝でよかったはずなんだけど。
それに、日大芸出身だったはずってのも。?
日大同窓会組織の役員もしてた記憶あるから。

私、現代ぷろで働いてたことあって、映画製作に入ってない時はフィルムの管理が主だったけど、何よりも山田典吾氏の専属運転手だったんだよね。 監督が移動する時は私の出番で(これが最優先)、映画関係の会社やシナリオハンティングで人と会う時(賀川豊彦の映画化の企画をしてたから賀川豊彦記念館へ行ったり)や、映画関係だけじゃなくて、知恵遅れの子供をもつ親の会とかなんとかの役員もしてたし、『もうひとつの少年期』ってのが撮影に入ってたから、それの北海道での撮影の時は、いや、これは山田典吾氏は製作だけだが、とにかく羽田空港へも行ったし。何しろ山田典吾氏、一人で何役もしてたからなぁ。
当時、現代ぷろの事務所は西新宿の十二荘通りと靖国街道の交差点そば(完全に角のビルじゃなかったから)のビルの二階にあって、山田典吾氏は渋谷よりの甲州街道沿いのマンションに一人で住んでて、その間の送り迎えもだったし、なんかの用あれば部屋ん中にまで呼ばれた。あの頃すでに
エントランスロックのマンションがあったんだね。 そういえば、車には自動車電話があった。 ガソリンを入れる時は監督からお金を貰ってて、それがいつも壱万円札だった、様な。 ?
いかん、思い出話になってしまう。
とにかく、日大、だよ。
うん。

あらためて思ってみると、1984年、山田典吾氏は当時60歳代後半。。!!
(私は28歳。)
すごいや。とてもそうは思えない。

役者や監督がみずから会社を興すことは(三船・石原・勝・各プロダクションなど。監督では新藤兼人の近代映画協会とか)、あるけれど、役者が集まってとか製作者がってのはあの頃にはあんまし聞いたことない気がする。

……なぁんか、
すごい人だったんだなぁ・・・

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