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2026年08月21日00:42

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道東紀行22 釧路の歴史

 今日は釧路の歴史について書いてみたいと思います。
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 釧路市の南部は太平洋に面し、釧路川等の河川沿いには広大な低地や釧路湿原が広がっています。低地の背後には「釧路段丘」等の海成段丘や、標高200m以下のなだらかな台地・丘陵地が連なりますが、北部には活火山の雌阿寒岳(1499m)や阿寒カルデラ等の火山性地形が広がっています。湿原や低地・沿岸部では、地表付近に水分を多く含んだ厚い泥炭層や粘土・砂の層が堆積していますが、基盤には新第三紀層等の比較的古い地層があり、嘗て良質な石炭を産出した釧路炭田の地質構造をなしています。北部や台地の上部は、阿寒火山などからの噴出物である火山灰や軽石に覆われています。
 釧路湿原内にある北斗遺跡〔史跡〕は、縄文時代・続縄文時代・擦文文化時代の複合遺跡です。
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 17世紀までの道東地域の歴史は「根室の歴史」《https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1992631044&owner_id=250900》を参照して下さい。
 寛永年間(1624〜44)に松前藩によってクスリ場所が置かれ、「久摺」「久寿里」等の当て字が行われていました。「クスリ」とは、アイヌ語で「越える・道」を意味する「クㇱル」、或いは薬の意味の「クスリ」が語源だ等の説があります。前者は、ここから標津や斜里へ越えていったため、後者は、川上の温泉から薬水が流れ出ていたためだとされています。
 寛文9(1669)年、松前藩の圧政に対してシャクシャインの乱が勃発すると、クスリや厚岸(アッケシ)等の道東アイヌも呼応しましたが、寛文11(1671)年に至って降伏、以後は松前藩による道東支配が強化され、クスリには運上屋(ウンジョウヤ)が設けられましたが、基本的には民間商人による「場所請負制」が行われる事となります。
 釧路市内には、17〜18世紀に築かれた釧路川流域チャシ跡群〔史跡〕のうち、春採(ハルトル)チャランケチャシ跡やモシリヤチャシ跡がありますが、このうちモシリヤチャシは和人が記録した日誌類から宝暦年間(1751〜64)に実在したトミカラアイノという人物が構築に関わっていた事が知られており、その人物の系譜やほかのチャシとの関係も記録されています。北海道には500か所程度のチャシ跡が確認されていますが、来歴等について和人による文字情報が存在する物は希少です。
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 寛政10(1798)年にクスリから襟裳岬までの山道が開削され、道南地域からクスリまで馬の利用が可能になった結果、クスリは漁業・交易・交通の拠点として重要性を増す事となります。
 寛政11(1799)年、11代将軍徳川家斉は東蝦夷地を天領とし、クスリには会所が設けられて行政・交易・交通の拠点となり、幕命によって根室・国後・択捉に主力が駐屯した南部盛岡藩兵の中継所としての役割も加わりました。
 文化9(1812)年に幕府は蝦夷地を松前藩へ返還、再び民間商人による場所請負制に戻したため、クスリ会所は請負人の手へと戻りました。しかし、安政2(1855)年にロシア帝国への備えから再び蝦夷地が天領になると、クスリ会所は再び行政拠点としての役割を強めました。
 この際、白老から択捉島に至る広大なエリアが仙台藩の警備地となり、隣の厚岸会所に置かれた出先役所である「調役在勤」の管轄の下で、クスリ会所でも藩士たちの駐屯や警戒任務が行われました。
 この時期のクスリで活躍した商人が越後国出身の四代目佐野孫右衛門です。彼は安政4(1857)年に盛岡藩領から漁民120名余りを釧路へ移住させました。これが、それまで一時的な漁場だった釧路が「街」として発展する大きな契機となったのです。更に豊かな水産資源に着目し、特に昆布漁の経営に力を注いで、出稼ぎ漁夫やアイヌ人の労働力を組織、全国に流通する「釧路昆布」のブランドと産業の土台を作り上げました。
 箱館戦争終了後の明治2(1869)年8月、北海道11ヶ国86郡が制定され、足寄(アショロ)郡・白糠郡・釧路郡・阿寒郡・網尻(アバシリ)郡・川上郡・厚岸郡から成る釧路国が設けられ、佐賀藩が釧路・厚岸・川上3郡の支配を命じられています。なおこの際に、クスリから釧路への改名が行われました。
 明治3(1870)年、佐賀藩は釧路会所を釧路本陣と改名しますが、この時期に四代目佐野孫右衛門は自ら釧路へ移り住み、200戸近くの移民を呼び寄せて定住を促しました。更にそれまで未開の原生林だった内陸の弟子屈(テシカガ)にある硫黄山(アトサヌプリ)の調査・試掘を行い、採掘した硫黄を運ぶための道路を開削、川舟を使った釧路川の水運ルートを整備するなど、道東の内陸開発の先駆けとなっています。
 明治4(1871)年8月の廃藩置県によって佐賀藩支配は終了、開拓使による直轄統治が開始されます。
 明治15(1882)年の開拓使廃止に伴う三県設置によって釧路国は根室県の所管となりますが、明治30(1897)年の安田炭鉱開坑によって、炭鉱開発が本格化します。
 明治33(1900)年の海道一・二級町村制の施行により、釧路郡釧路町が設置され、明治34(1901)年には前田製紙工場が竣工し、北海道初の製紙パルプ工場が稼働する事となりました。同年、北海道官設鉄道釧路線白糠―釧路間が開業しています。
 明治41(1908)年には詩人石川啄木が編集長待遇で釧路新聞社(現;北海道新聞社)勤務のため来訪、76日間滞在しています。
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 大正2(1914)年の国鉄釧路線滝川―下富良野間開業によって札幌・函館までの鉄路が繋がり、道東の交通の要衝としての地位が高まりました。大正5(1916)年には根室地方裁判所が釧路へ移転して釧路地方裁判所に改称されており、道東地域の中心としての地位が確立したのです。
 大正9(1920)年、釧路郡釧路町を分割し二級町村の釧路村が設置され、釧路町の他の部分は釧路区と呼ばれる事となりましたが、大正11(1922)年に釧路区は釧路市に昇格しています。
 昭和10(1935)年に「釧路丹頂鶴繁殖地」として釧路湿原の2700haが国の天然記念物に指定され、その重要性が認識される事となりました。
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 昭和11(1936)年9月27日、昭和天皇の行幸があり、釧路市設グラウンドに奉迎場が設けられています。
 大東亜戦争末期の昭和20(1945)年7月14日から翌日にかけて米空母艦載機による空襲で焼失倒壊家屋1618戸・罹災者6211名・死者192名・負傷者273名の大きな被害が出て、市街中心部は焼け野原となりました。
 なお、ソ連の独裁者スターリン書記長はトルーマン米大統領に「留萌と釧路を結ぶ線以北にソヴィエト赤軍を進駐させる」という提案をしましたが、同年8月18日に米側が拒否したため、釧路は邪悪なソ連軍に占領される事態を免れました。
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 昭和24(1949)年には、白糠郡白糠村の一部、及び釧路郡鳥取町を併合しています。
 道東太平洋側には沈み込み帯である千島海溝が形成されており、地震活動が活発となっているため、釧路市は地震や津波の被害を受けやすく、昭和27(1952)年3月4日の十勝沖地震では太平洋炭鉱のズリ山が崩れて家屋2戸が埋没し、死者8人・負傷者7人が出ています。
 同年3月29日には「釧路のタンチョウ及びその繁殖地」が特別天然記念物に昇格、面積も2749haに拡大されています。
 昭和34(1959)年には本州製紙(現;王子製紙)釧路工場が操業を開始し、昭和36(1961)年には釧路空港が開港するなど、道東の中心都市として繁栄していました。
 昭和42(1967)年6月22日には「タンチョウ」が地域を定めない特別天然記念物に指定変更され、同年7月6日には「釧路湿原」が天然記念物の天然保護区域に指定されて、その範囲を5011.4haとしています。昭和55(1980)年に日本がラムサール条約に加盟すると、釧路湿原は国内の指定第一号となり。昭和62(1987)年には28番目の国立公園となっています。
 平成17(2005)年に阿寒郡阿寒町と白糠郡音別町を併合しましたが、白糠郡白糠町が合併協議会から脱落したため、旧阿寒町エリアは飛び地になってしまいました。
 昭和時代の釧路市の人口は札幌市・旭川市・函館市に次ぐ道内4位でしたが、昭和59(1984)年以降は減少が進み、平成26(2014)年には市全域が過疎地域に指定されるに至りました。
 現在の釧路市の面積は1363.26㎢、人口は149995人で、苫小牧市・帯広市に抜かれて道内6位に後退していますが、末広歓楽街を有しているため、飲食店数は北海道2位の規模です。
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《続く》
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