清水 友邦
外見がどんなに立派な人物に見えても、肉体を持ってこの地球に生まれて来た限りは、母との関係性は誰もが避けて通れません。
躾や教育を考えて不安をかかえているよりも、お母さんが明るく元気に、楽しんで生きて行くことのほうが、子供も天真爛漫になり幸せです。
全ては空であり、自我に実体がないと仏教は教えます。
生まれたばかりの赤ちゃんは自我が未発達です。
赤ちゃんには、大人のような時間の概念がありません。
自分と他者や自分の境界も、はっきりとはわかっていません。
新しい出来事に出会うと、不思議そうな顔をしています。
固定観念でものごと見ることはないので、畏れと驚きをもって新しい世界を体験します。
それで、あの無垢の眼をしているのです。
幼児は、体が自分だという感覚を持っていないので、危険な行動を平気でします。
体が自分だという感覚を、十分に持っていないのです。
幼児は目を離すと危ないことをします。
危ない所にいって、怪我するようなことをやってしまいます。
そこで 「落ちたら痛い」というプログラムが入って、 落ちたら痛いんだから、落ちないようにしなくちゃいけないと、マインドは学習します。
こうして子供は、身体の自我ともいうべき自己感覚を築いていきます。
自我が芽生えるのは、お母さんが自分ではないと気がついたときと言われています。
幼児が愛らしく振る舞えば、周りの大人達もつい嬉しくなります。
駄々をこねられると困りはて、大人が折れると幼児は味をしめて、今度は要求が通るまで成功パターンである駄々こねがエスカレートしていきます。
逆に、いくら泣いて叫んでも全く、対応してもらえなければ、無駄にエネルギーを消耗すること、やめて感情を出さなくなります。
両親の期待に沿うようにマインドは学習して、環境に適応していきます。
学校教育の賞罰システムは子どもを不安に追い込み、子どもの心の傷を再現させ、暴力性、攻撃性、絶望性を招いてしまう可能性があります。
アメリカ疾病予防管理センター(CDC)の調査によるとアメリカ人の5人に一人が性的虐待を受け、4人に一人が体に痕ができるほど親に暴力を受けていると報告されています。
子どもは親や大人の言う事に従わざるをえません、そうしなければ親や社会から見捨てられてしまうからです。
そうして子どもの可能性の芽が摘み取られてしまうのです。
子供は成長の過程の中で、個人的な経験をもとに社会との関係性を投影した形で、社会を解釈していきます。
そして社会はこうゆうものだと決めつけて、自分を規制していきます。
考えが固定されて硬直状態に陥いると、自由なエネルギーを失い苦しんでしまいます。
欲求が満たされないと、幼児は苦痛が生じるので、心理的な痛みから逃れる為に思考エネルギーを強くして、痛みを感じないようにしてしまいます。
自己を分離させ、感情を感じる通路を封鎖して、感情を抑圧してしまうのです。
子供の欲求を完全に満たす事は出来ないので、ほとんどの人は、なんらかの欠落感を持っています。
愛を充分受け取れなかったその欠落感を、何か別なのもので埋めようとします。
心の奥にある欠落感を解消しようとして、過食に走る人もいます。
いくら食べても、お酒を飲んでも、胃は満たされても、心は満たされません。
結局、病的な身体になってバランスを崩します。
いい車、いい家、高価な宝石、高級家具、一流ブランドの衣服、消費世界では心の欠落感をお金と物で解消しようと大量消費に走ります。
しかし、それは偽りの欲求なので、いくら物を買い集めても心の隙間は決して埋まりません。
多くの人にかこまれても、一人になるとかえって孤独や不安を感じてしまいます。
携帯電話で延々と話し続けても心は満たされません。
延々と愚痴をこぼしても、本当の満足は得られません。
スケジュールの予定をびっしり埋めても、多くの異性と次々と性交渉しても、心の欠落感は埋まりません。
関係性の中で、自分の欠落感を相手に満たしてもらおうと相手に求めますが、求められた側も欠落感をもっています。
相手に嫌われないように、好かれようと懸命に努力して、期待に応えようとしますが自分で気がつかずに、与えることよりも、得よう、奪おうとしているのです。
あるがままの自分から離れて無理をしていると、やがて、耐えられなくなります。
刺激に反応して、無意識の領域から愛を得られなかった心の痛みが浮上してきます。
心の痛みを感じると、マインドは自己中心的な物語を作り始めます。
「自分はこんなにつくしたのに、あの人から酷い仕打ちを受けている」
いかに自分が惨めで哀れな不幸な人間かという、被害者意識で納得しようとするのです。
感情を感じるとマインドは痛みを感じたくないので、自動的に思考を強めて感情のプロセスを止めてしまいます。
それがいつも瞬時に行われているので、気がつきません。
あるがままの自分は、自己イメージから外れているのでマインドは受け入れる事が出来ないのです。
自動的に反応して、マインドが作り出す思考の罠にはまってしまいます。
自分の本当の欲求がなんであるかわからないと、自我は否定的なエネルギーに巻き込まれるばかりで、いたずらに外側で行動表現してしまいます。
刺激に機械的に反応しているだけのマインドと同一化していると、やる事なす事すべては的が外れて、必ず失敗してしまいます。
欠落感は内側にあるので、外側に求めてもうまくいきません。
本当は愛が欲しいだけなのです。
自分の心の奥の不安、無力感、悲しみ、痛みから、逃げずに、あるがままの自分と直面して、未完了のプロセスを完了させるしかないのです。
あるがままの自分を受け入れるということは、それまで自分が認めていなかった衝動を認めて受容するということです。
それは、今までの自己イメージが、偽りだったと気づく事でもあります。
否定的に思えた感情を、気づきと言う無限の大空の中であるがままにしておくと、制限から解き放たれたエネルギーは昇華して、深い喜びのエネルギーへと変容します。
それに、大勢の人が気がついたとき、新しい文明が地球に誕生するでしょう。
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