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2023年11月16日22:20

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さあ、学会発表の準備をしないと。

日曜は、下のような内容を「語る」ということになりそうです。。


敬語は、原則から演繹できない例外的な事項や細則が多いが、その一つ一つを誠実に説明するべきであろうか。
誠実に説明するという姿勢はまことに結構なことだが、天気予報が厳密になろうとすればするほど「晴れまたは曇り。ところにより雨」などというおよそ実用に適さない予報になるという。敬語の定義も同じである。「説明を省略しようというのか」とお叱りを受けそうであるが、そうではない。一つの説明ですべての事態が網羅できるような説明を考えるべきだということである。
たとえば、古文の格助詞の「に」は、ある学習用辞書(注7)によると次のような用法が存在する。
� 名貊蝓有◆婿�・場合〕��〔動作や作用の帰着点〕�ぁ牝虻遒篋醉僂諒�向〕�ァ牝虻遒篋醉僂梁仂檗有Α牝虻遒篋醉僂量榲�〕�А牝虻遒篋醉僂慮彊�・理由〕�─牝虻遒篋醉僂亮衙 �手段〕��〔動作や作用の結果、変化の結果〕��[受身表現や使役表現で動作の主体〕��〔婉曲(えんきよく)に主体を示し、敬意を表す〕��〔資格・地位〕��〔比較の基準や比況〕��〔状況・状態〕��〔累加・添加の基準〕�亜牟�意〕
用法の分類は実に16種類にも達し、しかも、決して例外的な用法ではない。果たして覚えきれるか。あるいは、覚えきれたとしても使い分けられるか。「に」が出てきたとき、16種類を一々代入しなければならないのか。何とも悩ましいところである。「そのうち慣れる」など、説明にならない説明は別として、予備校などで実際に行われている教授法は二つある。
第一の方法は、注意すべき用法(この場合は��)や頻度の高い典型的な用法(�´↓��い覆鼻砲魑鵑欧董◆屬海譴世嘘个┐譴个いぁ廚箸垢襪發里任△襦�ところが、多くの学生は、�Δ魘気┐覆�ったら、�Δ呂覆い噺躄鬚靴討靴泙Α�そうした現象は教育現場の随所で起きていることである。たとえば、漢文の授業で「将」を「まさに…とす」という再読文字であると教えると、生徒は「将軍」の「将」ですら再読文字だと思って「まさに軍とす」と書き下してしまうなどである。そもそも「これだけ覚えればいい」は、どんな用法が出てくるかわからない以上、一種の詐欺、少なくとも一種のギャンブルであるという誹りは免れまい。
第二の方法は、中心的な意味(意義素)を教えるというものである。言い方を変えると、単語の持つ離散的な(注8)文脈上の意味を連続したものへとまとめ上げる説明である。単語には、場面や文脈の影響で変容したと考えられる部分を取り除いたあとに残る、その語固有の意味である意義素が存在するという意義素論(注9)という理論がある。この考え方が便利なのは、用例から帰納的に導き出した中心的な意味を意義素とみなせるという点である。この、格助詞「に」の場合は、「←」(上向き矢印。本論文のような横書きの場合は、左向き矢印)である。
たとえば、�┐蓮�
「火に焼かむ」=「火」←「焼こう」(『竹取物語』)
��ならば、
「白き灰がちになりて」=「白い灰が目立つ状態」←「なって」(『枕草子』)
と直観的に文脈上の意味が見て取れる。
説得力があり、生徒が理解しやすく使いやすい。ともすれば代表例を挙げて中間のものを無視するなど離散的になりやすい用法の説明を、グラディーションを描くようにしてある中間の部分まで掬い取ることができるなど、さまざまな長所があるが、最大の長所は、説明になっているということである。「群盲、象を撫でる」という人口に膾炙した格言がある。象の胴体をなでた人が「象は壁のようなものだ」といい、耳を触ったものが「象は団扇のようなものだ」と述べる。断片的事実の描写をいくら積み重ねても象の説明にはならない。だが、象の全体像や本質が分かれば、たとえば象が鼻で円を作った場合など想定外の事態が起きても対応できる。理解や説明の研究はギリシア以来の伝統があるが、理解は断片の知識の集合であると解釈された試しはない。アリストテレスは『形而上学』において「経験家の方は、物事のそうあるということ〔事実〕を知っておりはするが、それのなにゆえにそうあるかについては知っていない。しかるに他の方は、このなにゆえにを、すなわちそれの原因を、認知している。」(注10)。事実を結び合わせる因果関係的内容や本質の説明こそが説明であり、事実の列挙は説明の名に値しない。
 実際問題として、一つの原理で説明できるものを、多数の原理で説明するからこそ、話がややこしくなるのである。ビジネス書などのハウツーものではなく、大学生に勧めるに値する内容のある書物、たとえば、辻村敏樹氏の『敬語論考』(注11)は、643ページ、本論でも繰り返し扱っている菊池康人氏の『敬語』は、講談社学術文庫の細かい活字で450ページ以上と分厚い。国語学専攻ではない大学生が本業の片手間で読める分量ではない。参考文献として紹介はしたが「読め」とはいえなかった。
説明を構築する前提として、当然、用語も工夫しなければならない。湘南鎌倉医療大学にて受け持っている受講生百人の「国語表現法」において、敬語の説明に入る前に「敬語に関して疑問に思っていることや知りたいことを書いてください」というアンケートを取ったら、非常に示唆的な結果が出た。まず、
「謙譲語は相手を尊敬しない言葉であるが、相手を尊敬しない敬語という意味がよく分からない」
という記述が五枚もあった。尊敬語、謙譲語、丁寧語という用語を教わった(注12)から、この三者が異なるものだと思い込み、謙譲語は尊敬語ではないと彼女は考えたのだった。同様の誤解として、
「尊敬語、謙譲語、丁寧語の使い分けを知りたい」
というものも十枚近くあった。詳しく話を聞くと、為手尊敬か受手尊敬かといった使用方法の違いではなく、たとえば、「恩師には尊敬語を使い、初対面の顧客には、尊敬できる相手かどうかまだわからないから尊敬語を使わずに謙譲語を使い…」などという敬意のあり方の違いによる使い分けがあるのかと思っていたのだった。彼らの誤解には無理はない。「麺類とうどんとスパゲッティ」などという表現はありえない。並列されているものは異なるものだと思うのは自然である。敬語は解説の前の呼称の段階で誤っているのだ。
 近代以降、日本の国語学者は、「かざし」「あゆい」(共に富士谷成章)「通ひ路」(本居春庭)などの、国学者が案出した、日本語の実情を現代の文法用語よりも正確に捉えた用語をゆえなく破棄し、「助動詞」という一見して誤りだとわかるような用語を使い、学校教育を乱した。だから、今、「尊敬語、謙譲語�機�謙譲語�供�丁寧語、美化語」という分類を変更したとしても、何ら咎めだてられる筋合いのことではない。
 あらゆる語義解釈は、宿命的に帰納的である。果たして、単語は意義素という中核の意味を持つと言えるか。意義素論を是とするも非とするも、帰納的な語義解釈を否定することは何人にも不可能なことである。


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