「リクルルート事件で倒れた竹下登内閣のあとをついだ宇野宗佑内閣は1989年6月に発足しのした。しかし7月の参院選で敗北し引責辞任、わずか6日間で幕を閉じました。宇野内閣は竹下登前首相の後継指名による事実上の第2次竹下内閣でした。
宇野氏のあと9年11月まで続いた海部俊樹内閣も第3次竹下内閣、もしくは竹下派内閣でした。自民党内の政治力学からみると3代・4年間にわたって竹下派による内閣が続いたのです。竹下内閣が発足したのは5年11月。中曽根康弘首相の裁定によるものだった。
竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一の中から竹下が後継指名されました。田中角栄を裏切り、党内最大派閥の数の力を背景に、だれもが長期政権になるとみていました。ところがリクルート事件が招いた政治不信の突風によって、あっけなく倒れたのです。
リクルート事件は1988年6月末に表面化しました。リクルートコスモスの未公開株を譲渡され、濡れ手で粟とばかりに利益を得た政治家だけでなく、リクルートから政治献金を受けていた政治家も批判の対象となったのです。
同年12月末に成立する消費税法の審議の過程で、未公開株の譲渡を受けた宮沢蔵相が「ネコの目答弁」によって、辞任に追い込まれました。同年末の内閣改造の直後には、長谷川峻法相、原田憲経済企画庁長官がリクルートから政治献金を受けていたことが発覚、更迭されました。そこに1988年4月からの3%の消費税導入が重なったのです。
芸能人の誰かさん「僕のお爺ちゃん」とテレビでよく自慢しているが、竹下氏は田中角栄を裏切り、いけないお金に手を出し、初めての消費税導入を行なった方です。自民党批判が一気に強まったのです。2月の参院福岡選挙区の補欠選挙では、自民党が社会党に大敗を喫しました。竹下内閣の支持率は急降下したのです。
日本経済新聞の調査によると1988年9月には31%あった支持率が、同12月は22%にダウン、1989年3月には13%にまで落ち込んだのです。1988年3月末から4月上旬にかけて、リクルートグループから竹下首相への資金提供が次々と明るみに出て金庫番で竹下の信頼がいちばん厚かった秘書が自殺するなど混乱が続いたのです。
そして、4月25日に退陣を表明しました。「ポスト竹下」の最右翼と目されていたのは、安倍幹事長でした。ところがリクルートの未公開株の譲渡を受けていたのは竹下首相と同じで、しかも体調を崩し、退陣表明の一週間前の4月16日には都内の病院に入院、闘病生活に入っていたのです。
当時、リクルート事件で汚れた印象を与えた自民党実力者らとは対照的に、清貧のイメージで世論の支持を集め、党内の中堅・若手から首相待望論が出たのが伊東正義総務会長でした。しかし持病の糖尿病で健康不安があり、夫人は絶対反対でした。
伊東自身もリクルート事件へのけじめとして、竹下、安倍、宮沢、中曽根康弘、渡辺美智雄の実力者がすべて議員辞職をする総退陣論を主張、渡辺らの反発を招いていたのです。「本の表紙だけ変わっても、中身が変わらないとダメだ」という伊東の名セリフはこのときのものです。 伊東は竹下らによる「傀儡政権」といわれることを極度に嫌ったのです。
竹下は数回にわたる伊東との会談で、後継総裁への就任を要請したことになっていますが、竹下が本気になって後継者として伊東を説得したのか大いに疑問の残るところです。伊東は「総理を断った男」といわれ、そうした声価が定まっています。
果たして、そうだったのだろうか。おそらくそれは違うと思うのです。つくられたイメージです。生前、伊東氏は「一度も竹下から、後をやってくれとは言われなかった」と明かしています。
(5) 仲條拓躬 - YouTube
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