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2021年05月22日09:15

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たまには、最初に住んだコーポ近くをバスで通り…

ここ数週間、疲れていました。
昨日は、大船。それから調布に移動です。
何通りか行き方がありますが、藤沢から小田急で狛江に出て、調布南口行きのバスに乗ろうと思いました。

かつて住んでいた街の近くに行くと、元気が出ます。
しかし、それは決して、「昔はこんなに狭いコーポに住んでいた。それを思えば贅沢は言えない」などの新旧の生活や境遇の比較や、「何々先生のみ霊に愧じないような行動をとりたい」というような、誓いではありません。

どうもここが、言葉が研究されていないところだと思います。言葉の限界ということではありません。もっと単純なこと。上の二つは、他者との比較だから、だからこそ違います。何らかの重みを感じて、言語化をあきらめた。下手をすると言語の生活とはその先人の失敗の後を辿っているだけになります。
人は他者と自分を比較して生きられるような、そんな単純な存在ではありません。
また、お金、地位などの量に還元することは出来ない存在です。

表象の累積をただ、即自的に生きている。それだけ。表象、たとえば過去のイメージは普通、「大学時代の思い出の地」などという陳腐な言葉に封印します。しかし、その封印を取り去ると内面深く遡行するきっかけとなるものです。自分の内面に世界の全てがあるが、いわば、その通行手形となるものが、過去の、あるいは現在のイメージです。
(表象…記憶であれ想像であれ、視覚的イメージであれその他の五官のイメージであれ、心に浮かぶもの)

大学時代、一年生のときは世田谷区喜多見九丁目に、それから、喜多見七丁目に転居しました。バイト先の一つが、狛江市中和泉にあった、勝本富士雄のアトリエです。そこでいろいろな人に会い…という経験がありますが、「出会い」などというと陳腐なレッテルに封じ込まれるでしょう。重大なのは意外なところにあります。勝本先生が私のアパートにお見えになったとき、飼い犬が洗濯機の隣に神妙に待っていた、その前足をそろえた姿。また、深夜に散歩に行って、風が強くて大木が乱れている。成城あたりかと思って歩いたら、調布市入間町の陶器のプレートがかかっていて、なぜかそのプレートは楕円形だった…などという、断片の記憶です。

それらの断片は、意味に乏しいからこそ、決定的に重い。日常だからこそ、重い。そういうことは言えます。そういう日常の表象の積み重ねは、なぜか癒しになります。

…狛江市役所(勝本画伯のライジングサンという壁画があります)、慈恵第三病院を経たニ十分のバスの旅でした。
バス通りからの印象は、区画は狭いものの、まるで成城のような静かなお屋敷町だっんだなというものでした。あっという間に調布につきました。
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