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2019年03月08日06:10

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安楽死。この先、研究するべき「即非」の論理。

安楽死問題は、観念的抽象的に答えは出せないと思います。
具体的に考えないいけませんが、それでも答えが出るか…
その答えは、西洋の思想からは見つからないと思います。

ちなみに、
私は、安楽死に賛成します。しかし、書いているうちに、どうも、反対や慎重の立場の根拠が思い浮かびます。
また、今回の問題の場合、透析すれば生きられるわけですから、終末期医療の安楽死とは、全然違うものです。患者の意志により透析を中止して死んだとしても、正当化は一段と難しいものだと思います。

一般的な安楽死の場合も、精神、とりわけ「意志」を巡る問題は、一筋縄ではいきません。

1 私は、過去に、こんなに痛いなら死んだ方がましだ…と思ったことがあります。
手術の後です。もちろん、死ななくてよかったです。ちなみに、導尿です。
自分のことは自分で決める自由意志というものは、それほど信頼できるものなのでしょうか。ぼくは、そうは思えませんね。

2 失恋や借金で死にたいほどつらい人は、世間に多いです。治療中断と自殺は、どう違うでしょうか。
病院に行って、「オレは…という事情で苦しいんだ。死にたい。毒を注射してくれ。」といったとします。医師が応じるはずはありませんが、痛みの安楽死とどう違うのでしょうか。

3 透析がどれほど辛いか、透析をしていない人は理解できるでしょうか。
ここが、最大の問題で、絶対に解決できないところです。
痛覚の問題の議論が不十分(と聞いております)なのに、移植を進めた脳死が思い浮かぶところです。
また、議論で決着していると言われるものも推測でしかないと思います。個人差が入っていないからです。

また、精神状況はどうだったのでしょうか。


…最近は歳のせいか、15歳程度年上の知人から、自殺願望ほのめかしに近い話を聞きます。
「死ぬ準備をしている」「オレも、もういいか」「あと、五六年の人生だな」…
しかし、ここが重要ですが、
面白いことに、本気とも本気でないとも言えません。

祖母を思い出しました。

(成長した孫たちをみて)
「もう、いつ死んでもいい」

(入院して)
「一分でも長生きしたい」

両方、本音であり、
途中で気が変わったわけではありません。

『金剛般若経』には、
「諸微塵,如來説非微塵,是名微塵。如來説、世界,非世界,是名世界。」
私に訳すると「数えられた塵とは、実際の塵ではない。だから塵と名付けることができる。区切られた世界とは、真実の世界ではない。だからこそ、世界と、名付けることができる」(第十三章)
という言説に代表される、即非の論理として名高い思想が繰り返されています。

人間の精神は取り留めがない複雑なものであり、
その一部を切り取るからこそ、意志が現象します。

研究するなら、そういうことを研究するべきですね。


透析中止の女性 スマホでSOSか
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5527013
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