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2026年10月21日03:41

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紀伊長島日帰り紀行05 長島城跡 / 長島公園

 9月24木曜日は助休庵石地蔵から長島城跡〔紀北町指定史跡〕登山道へ向かいました。
https://www.google.com/maps/place/%E9%95%B7%E5%B3%B6%E5%9F%8E%E8%B7%A1/@34.2014009,136.3304508,17z/data=!4m6!3m5!1s0x60042d005c5249c9:0x2e719f038f8427d9!8m2!3d34.2026282!4d136.3321119!16s%2Fg%2F11w59kvyps?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI2MTAwNy4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D
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 長島城は、至徳元(1384)年に南朝権大納言・伊勢国司の北畠顕泰の家臣であった加藤甚左衛門が志摩国英虞(アゴ)郡長島の標高146m地点に築いた山城で、比高差は144mです。
 当時、鎌倉北条氏の遺臣で赤羽谷(アカバダニ)に拠っていた奥村氏が周辺を劫略していたため、北畠氏が防衛拠点として城を築いたのです。
 南北朝一統後の応永2(1395)年に奥村氏は尾鷲・長島に向かって攻めて来たため、加藤甚左衛門は尾鷲で迎え撃ちましたが内通者がいたため敗れて自刃に追い込まれました。但し、長島城は死守され、城主の座は加藤氏が世襲する事となりました。一方、奥村氏は前山を本拠として勢力を保ちます。
 天正3(1575)年、織田信長の次男である信雄が北畠家督を継ぐと、奥村氏は北畠氏に帰服し、5代目長島城主加藤甚五郎の傘下に下りました。
 天正4(1576)年、北畠信雄は加藤甚五郎に新宮城主堀内氏善征伐を命じ、甚五郎は尾鷲の三木城を攻略しましたが、堀内氏善の反撃で三木城を奪回され、本拠の長島城へ逃げ帰ります。勢いに乗った堀内軍は長島城を包囲、甚五郎は数ヶ月間持ち堪えましたが、配下の奥村氏の裏切りのため長島城は落城、甚五郎は自刃して果てました。享年54。長島城はそのまま廃城になりました。
 なお、天正10(1582)年に堀内氏善と織田信雄は荷坂峠を境とする事で和睦、志摩国英虞郡の大半を、それぞれが紀伊国牟婁郡と伊勢国度会郡に編入したため、当地は紀伊国に属する事となりました。
 大東亜戦争(1941〜45)の際には長島城跡に軍事監視所が置かれていました。
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 登り始めてすぐに長島公園がありますが、ここからの長島湾の眺望は見事です。
https://www.google.com/maps/@34.2008285,136.3323498,19z?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI2MTAwNy4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D
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 こちらは江ノ浦大橋です。
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 長島公園から少し上ると愛宕山大権現があります。
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 その少し上方には表忠碑が建っていました。
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 この付近には土塁っぽい物も見られました。
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 石垣の残滓(ザンシ)っぽい物もありましたが、多分、後世の物でしょうね。
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 ここから更に上方の本丸を目指しましたが、登山道が小羊歯(コシダ;Dicranopteris linearis)の藪で閉ざされていたため、本丸に行くのは断念しました。9月は蝮(マムシ)が産卵期で狂暴化しますので、藪に入るのは危険なのです。
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《続く》
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