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2026年09月29日02:35

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恵那紀行15 明知城跡

 8月20日木曜日は龍護寺に参拝後、南下して明知陣屋跡を訪れました。
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https://www.google.com/maps/place/%E6%98%8E%E7%9F%A5%E9%99%A3%E5%B1%8B%E8%B7%A1/@35.3049584,137.3910448,18z/data=!4m6!3m5!1s0x600353b8249d164f:0x147bbfdc9121548e!8m2!3d35.3044356!4d137.3918635!16s%2Fg%2F11fxzvbfv7?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI2MDkyMy4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D
 江戸幕府初代将軍徳川家康から6531石の交代寄合に封じられた遠山利景は明知城を居城としましたが、元和元(1615)年の一国一城令により2代目遠山方景(ミチカゲ)は明知城を廃城にして、城の西麓の大手門近くに明知陣屋を築いて政庁・居館としました。
 延宝6(1678)年、5代目の遠山伊清(コレキヨ)の代からは江戸定府となったため、明知陣屋は村上氏が代官となり、明治2(1869)年の版籍奉還に至りました。
 元治元(1864)年に描かれた絵図によると、御門・中御門・南御門・裏御門・御門番所・御役所・御台所・御書院・御土蔵・家臣長屋・射小屋・木戸口・御用炭倉・御矢場・御池・稲荷社等が配されています。陣屋正面には水堀があり、水堀の土橋を渡ると「御門」と呼ばれていた正門がありました。周囲には垣根が巡らされており、北辺と東辺には土塁、土塁の西端の稲荷社の北西には馬場、最奥部には木戸が構えられ手前には的場がありました。また近くの「御池」は御殿庭園の名残と推定されています。
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 ここから明知城跡〔岐阜県指定史跡〕へ登ってみる事にしました。
https://www.google.com/maps/place/%E6%98%8E%E7%9F%A5%E5%9F%8E+%E6%9C%AC%E4%B8%B8%E8%B7%A1/@35.304039,137.3925736,18z/data=!4m6!3m5!1s0x60035351277867fb:0x61e5666e522287f4!8m2!3d35.303515!4d137.3946457!16s%2Fg%2F11fd5kf4wx?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI2MDkyMy4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D
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明知城は別名白鷹城とも呼ばれ、宝治元(1247)年に明知遠山氏初代の景重が標高530mの山に築いた天険の地形を巧みに利用した平山城です。なお、美濃国には、可児郡明智荘(可児市)にも明智城(長山城)が存在していたので、混同への注意が必要です。
 戦国時代には土盛砦として保塁数大小23箇所が設けられ、今でもその様子が原形のまま残っているの日本でも数少ない城跡です。重要な砦には石垣を積み上げ、中に陣屋として実戦に備えた館5棟ありました。
 大永年間(1521〜28)に遠山直景は明知城を遠山景行に渡して退去し、士卒180名を率いて関東へ赴き、北条早雲の配下に入ったとされます。景行は直景の甥だとする史料もありますが、土岐氏一族の明智光安と同一人物だとの系図も伝わり、その結果、光安の甥の明智光秀は当地で生まれたとの伝承があります。しかし、実際には光秀が生まれたのは可児郡明智城だった可能性が強い様です。
 戦国時代末期、東濃地方は武田信玄と織田信長の争奪の地となり、始めは武田信玄に従っていた遠山景行は織田側へ寝返ります。しかし、元亀元(1570)年に明知城は信玄が派遣した秋山信友によって攻略され、景行は落ち延びる途中で自刃して果てました。
景行の長男景玄の子である一行が家督を継ぎましたが幼少のため、出家していた景玄の弟が還俗して名を利景と改め、一行を補佐し明知遠山氏を守る事となりました。そして信長の援軍を得て直ちに明知城奪回に成功したのです。
 天正2(1574)年初頭、武田勝頼が大軍を東濃へ派遣すると、信長は嫡男信忠と明智光秀を派遣して明知城を守ろうとしましたが、同年2月に城内で裏切りが発生したため落城、遠山一行・利景は城を脱出し、一行の妻の実家である足助(アスケ)の鈴木氏を頼りました。
 しかし、天正3(1575)年に信長が勝頼を長篠の合戦で撃破したため、東濃地方は再び織田方の支配に復し、遠山一行・利景は明知城へ戻っています。
 天正10(1582)年6月、本能寺の変が起きた際、遠山一行・利景は甲斐に在番していましたが、混乱の中、一行が甲斐に残り、利景が明知城へ戻りました。帰途、利景は三河の徳川家康の家臣本多重次に会い、今後は徳川に味方することを誓っています。
 天正11(1583)年、賤ケ岳合戦に勝利した羽柴秀吉が美濃領主織田信孝を自害させ、池田恒興が岐阜城主となると、東美濃は恒興の娘婿森長可(モリナガヨシ)に委ねられました。この結果、圧迫された遠山利景は明知城を脱出して徳川方の足助の鈴木氏を頼りました。
 天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いで池田恒興・森長可が戦死すると遠山利景は混乱に乗じて明知城を奪還しましたが、家康が秀吉と和睦すると、秀吉は明知城を長可の弟森忠政に返せと命じ、利景は再び足助の鈴木氏の下へ逃れました。明知城には森左近が城代として乗り込んでいます。
 天正13(1585)年、関白豊臣秀吉は森忠政の重臣の林為忠に明知城を与えましたが、慶長5(1600)年2月、内大臣徳川家康は森忠政を川中島に移封、代わりに田丸直昌を岩村城主としました。その際、原土佐守が明知城代となっています。
 同年9月の関ヶ原合戦に際し、田丸氏は西軍に属したため、家康は秀忠軍が通ると想定された東濃地方の攻略を遠山利景に命じ、利景は明知城を奪回したのみならず、岩村城も攻略して東美濃を平定する功績を挙げました。この結果、先述の様に利景は6531石の交代寄合として旧領へ復帰したのです。
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 では、大手道から本丸を目指してみましょう。
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 土塁です。
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 大手門東砦跡です。
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 大手門桝形です。
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 畝状空堀群です。
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 帯曲輪(オビクルワ)と枡形虎口(マスガタコグチ)です。
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 帯曲輪です。
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 腰曲輪です。
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 二の丸です。
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 漸く本丸が見えて来ました。
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 本丸です。
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 本丸からの眺望です。比高は80mあります。
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 標高が530mもあるためか、早くも彼岸花(ヒガンバナ;Lycoris radiata)が咲いていました。
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 こちらは鍾馗水仙(ショウキズイセン;Lycoris traubii)です。
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 凌霄花(ノウゼンカヅラ;Campsis grandiflora)も咲いていました、
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《続く》
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