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2026年04月05日07:25

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つげ義春さんが教えてくれたもの 『ねじ式』を「解読」してはいけない。特選

■つげ義春さん死去、88歳=漫画家、「ねじ式」
(時事通信社 - 03月27日 19:02)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=8724809

昨日の日記で、
『海辺の叙景』と『やなぎ屋主人』を取り上げました。
『海辺の叙景』が素晴らしいのは、意味づけがないことです。鷗外の『青年』でしたっけ、あれなら、未亡人と作家志望の青年という立場から、この男女の仲を読んでいくしかありません。
谷崎潤一郎の『春琴抄』なら、
Aー1 佐助が、永遠に春琴を自分のものにするために春琴に熱湯を浴びせ、自分の目をついて盲目となった。A−2 佐助が自分のマゾヒズムの完成のために、 春琴に熱湯を浴びせ、自分の目をついて盲目となった。B 春琴が佐助の愛を確かめるために、熱湯を浴びた。という読みが可能です。
だが、女性のケロイド=醜い、男性は女性の美貌にひかれる
という意味を前提にして読んでいくしかありません。すなわち、浅いのです。

『海辺の叙景』には、それがない。

男性の恋愛は、セックスに向かいます。しかし、まだその気配もない。
というより、読者としては、ふたりが深い関係にならないほうがいい…いまの情緒がずっと続いてほしいとすら思います。
意味は、生じると凡庸陳腐な現実を導き出すだけです。
『やなぎ屋主人』には食堂を兼ねた旅館の娘と結ばれた後の数十年後の想像図があります。包丁を握って、婆さん(娘)と写真に写りこんでいる板前の爺さん(自分)…

昨日、『ねじ式』を取り上げなかったのは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%81%98%E5%BC%8F
どうしてもあの世界を「解読」(意味を解き明か)したくなるからです。
読みは、しかし、作品の一面しかありません。
たとえば、ある男が女に、「君は、肌がきれいでふくよかで目がぱっちりしている好みのタイプだから、ぼくと付き合ってください」と言ったらどうでしょう。そういうものを超えた言語化できないものにひかれているのだから、無意味です。そういう乱暴な一般化には相手の女性は怒り出すでしょう。
「解読」や「評価」は、現実を矮小化させます。
特に恋愛は、どういう形であれ、相手とは永遠に会えない一度きりのものです。仮に来世があったとしても、もう会えません。
「あの子は、前世で武士だったころあこがれていた、御屋形様のお姫様だ。関ケ原の合戦で大谷吉継の手勢に討ち取られて死ぬ数週間前にお姿を拝見したなあ。懐かしい。転生して池袋のキャバクラ嬢におなりになったとは、おいたわしい…」
なんて思った経験はないですから。

だから、ぼくは近代文学研究(明治二十年代以降の国文学の研究。作品論が多い)を下りました。
それでも、まだすごいと思っている研究者に、わが師 東郷克美先生がいらっしゃいますが。それは、別の話として。
今、自分は『雨月物語』の構造、意味づけの錯誤(まちがいやズレ)が原動力となる物語を、上田秋成がベースとした曹洞禅から研究しています。

あれこれと考えていましたが、
『ねじ式』を解読するのはまちがいだ。
この心の底から湧き上がるような声は、そのあれこれ考えたこととぴったりと重なっています。
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