13日は、女子大生二人と会食でした。
やっとお酒が飲めるようになったばかりです。
ですから、松し滿に連れていきました。
そういうときは、能書きを垂れないのがコツです。全部を言いきらない。特に中年以降のコツです。。
言いたいことはたくさんありましたが、黙っています。
先付け(口取)
粟麩と冬�擇慮嬲秧�
しらすと茶葉の山椒和え
柿なます
揚げ物
海老真薯
かしわの竜田揚げ
焼き物
玉子焼き
茶そば
という構成です。
会席料理が変化して、割烹料理になったものです。バラバラにするとつまみになるというわけですが、美味しいつまみとして彼女たちは味わったようです。
グルメ研究会というサークルを作るそうですが、いろいろと食べ歩きをして、バラバラな美味からどんな秩序を見出すか楽しみです。
大塚芸者は最後のおひとりだけ。座敷で芸をみたりすることもなければ、蝶足膳もありません。
今や、
芸者さんの踊りという様式や、蝶足膳を前にした作法や席次などの秩序もありません。だからそれでいいというか、とっても現代的です。
郷里の先輩だからどうの…というしがらみはなく、
異性は芸者さんではなく、素人さん。
現在の対人関係こそが本来の姿です。
ところが、さすがは松し滿。やはり、伝統を踏まえているのですね。
店主が先斗町で修業しただけあって、粟麩が出る。
そして、全ての先付がほんのりと甘い。
(昔は砂糖が貴重でした)
そこで考えたのですが、五、六年前までは、何事も「新たな秩序」を模索していました。
どうやら、そうではないようです。
新たなものは、ワンポイントです。それも、かつてからあったもののリメークです。
たとえば、
「このシラスと茶葉の山椒和えが美味しい」と誰かが思うこと。
そういうワンポイントが含まれた全体を予測することは、人力では無理で、自然発生するしかないと思います。
私は新自由主義は、少なくとも現在のような情勢下には徹底的に合わないとおもっていますが、ハイエクがかつて述べたことの意味は大きいと思います。
【 「自由」という言葉の意味のすり替えは、どんな主張でももっともらしく聞こえるようにするための手段として行われた。かつて、「自由」という言葉は強制からの自由、他者による支配からの自由、個人に望まない命令への服従を余儀なくさせる束縛からの自由を意味していた……しかし、新しい「自由」の意味するところは……「富の平等な分配」という古くからある要求の言い換えにすぎない。】
全体の秩序を作ろうとすると、「自由」さえも「貧困からの自由」という矮小なものになる。ごく一面しかあらわさなくなって大多数の内容を失う。
AIの弊害が叫ばれています。
ところが、それに対抗するモノや批判する言説は体系的なものはダメですね。おとといの日記がそれにあたります。
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