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2025年12月11日18:23

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完成 『雨月物語』 齟齬と頓悟の構造 ーーなぜ、崇徳院は、西行の和歌に感動したのかーー  本間也寸志 上

1 『雨月物語』という出来事
 
 私たちは、文学を研究している。
 しかし、改めて自問するが、文学研究の持つ意義は、一体、どのようなものであろうか。
 踏まえている文献やその時代の社会制度や価値観を明らかにし、表面的な読書からではわからない作品の真相を明らかにする研究には、もちろん大いに意義がある。だが、そうしてあきらかになった研究者が読み取った作品の内容とはいかなる意義を持つものであろうか。
 近代文学研究の世界で、前世紀の終わりに、谷崎潤一郎『春琴抄』を巡る論争があった。
 主人公の春琴が熱湯を浴びせられ、醜い容貌にさせられる。春琴の琴の弟子であり、愛人や奉公人として無私の献身を続ける佐助は、醜くなった春琴の顔を見ないように自ら針で眼をついて盲目となる。論争の焦点は、春琴に熱湯を浴びせ容貌を醜くしたのは誰かということである。多田道太郎、野坂昭如、千葉俊二、秦恒平、永栄啓伸 など論客は多士済々であり、佐助犯人説(佐助が盲目となり自分のマゾヒズムを完成させるために、あるいは春琴を完全にわがものにするという支配欲から春琴に熱湯を浴びせた等)と春琴自害説(「自害」は、通常、自殺の意味に当たる言葉であろうが、秦恒平氏の表現に従う。春琴が自ら熱湯をかぶったと考えるもの)の二つに大別される論が盛んに論議された。それらの一つ一つ、特に作者の伏線としての描写の工夫を指摘した部分には、大いに眼を開かされた。だが、結論に意味があるとは、到底、思えなかった。上質なスリラーは読み手を手に汗握る体験をさせる。それに対して、「このスリラーは、恐怖を描いている」と述べることに何らの意味はない。怖くはない上に、作品の結構を明らかにしないからである。『春琴抄』なら、春琴の受傷に違和感を覚えつつ考え続けるという体験や、研究するならば、作品の与える違和感の構造の解明こそに意義があるのである。作品の内容を考え、その本質を感じとろうとすることこそ文学体験なのであり、読者をそうした精神状態に導く力や物語の結構が、その作品の特質だからなのだ。
 『雨月物語』もまた、読者に強烈な違和感を与える物語である。
 全てではないが、多くの説話を貫く重大なテーマに、認識の齟齬がある。「通奏低音」という言葉が評論の世界で使われるが、モチーフに対する伴奏のごとき副次的な要素ではない。齟齬こそが重大なモチーフでありテーマである。正確に言うと、読者の味わう体験であると言った方が適切であろう。『雨月物語』の各説話は、齟齬を読者に体験させることで、意味という死んだ物語を超えた、生きて動く物語を読者に提供するのである。
 具体的にみてみよう
「菊花の約」(注1)は、一読すると、忠義の士である赤穴宗衛門の敵を討つ左門の義挙が描かれているように思われる。だが、1 宗衛門が尼子経久に仕えなかった理由は、打算である。2 左門が語った尼子経久評は、『塵塚物語』などに書かれる「天性無欲の人」などという同時代の尼子経久評とは正反対である。宗衛門が虚言を述べている可能性を考えなければならない。3 河内屋源七郎版に掲載されている版画(注2)は、その説話の核心部分を材に採るが、「菊花の約」の版画は、管見によると、蜂屋一党や尼子与党が命がけで闘う「信義」を描く。以上の理由から、「菊花」という言葉に暗示されるように(少なくとも精神的には)衆道関係にあった左門は,、宗衛門を美しく誤解してとらえたのであり、尼子経久が最後にに述べる「軽薄の人」とは左門のことではないか。
 また、「夢應の鯉魚」(注3)は、放生の功徳が描かれているとされている。しかし、興義は、わだつみの使いと会う前から水府の楽しみ、すなわち、魚と一緒に琵琶湖を泳ぐ楽しみを得ている。作品の最後には、興義の臨終の際に鯉の絵を琵琶湖に散らしたら、鯉が紙繭を離れて泳ぎだしたとあるが、湖でありながら波が立つ琵琶湖に、水墨画の魚を放てば魚が泳ぐように見えるはずだ。何よりも「興義が神妙をつたへて時に名あり」とされる、弟子成光が、鶏を描いたら本物の鶏がそれを蹴ったというエピソードが、絵の鯉が泳ぎだしたのは錯覚であることを示唆している。絵の中の鶏が生きて動き出したという神妙不可思議な怪異ではないからである。
  後は駆け足で書くしかないが、 「吉備津の釜」(注4)は、美しいとされる焦点人物の女性に磯良という醜い名前を付けて読者を幻惑し、「青頭巾」(注5)は、曹洞宗快庵派が「形見」とまで誇る「江月照松風吹 永夜清宵何所為」の謎をかける。
 いずれも、読者の九割方が考える読みを覆される。そして,参禅者がまるで公案を解くかのような頓悟こそが、『雨月物語』を読むという体験なのである。
 この『雨月物語』的な体験は、研究され尽くされてはいない。だからこそ、あえて述べると、出典探しなど文献学的研究と同時に、もしかしたらそれ以上に、読みの論文を書く必要があると言えるかもしれない。
 
2 選びとられた西行という語り手

 『雨月物語』の作者、上田秋成は、丸山眞男(注6)が近代の条件とする作為の契機(何かを自分で選択して作り上げること)を体現した人物であったのではないか。齢四十を目前にして、家業である嶋屋が火難によって破産した後、漢文の素養があったから比較的容易だったとはいえ、医師に転向した秋成自身の針路変更の行動が目を引く。秋成にはそうした新しさがあった。だからこそ、いわゆる日の神論争において、「太古の事蹟の霊奇なる、誰か其理を窮むへき、大凡天地内の事、悉皆不可測ならぬはあらす」 「此図(引用者注 世界地図のこと)中にいでや吾皇国は何所のほどゝ見あらはすれは、たゝ心ひろき池の面にさゝやかなる一葉を散しかけたる如き小嶋なりけり。 (『安ゝ言』)と、当時の国学者の国粋主義的心情にとらわれることがない主体的な論理を展開できたのであろう。また、だからこそ、『世間妾気質』『雨月物語』『春雨物語』など、文体と技法を自由に選び取り、全く異なる性質の物語を書くことができた。
 文学の創作において作為の契機の究極のものは、他の一人称主体を選び取ること、すなわち架空の人物になりきってしまうことである。娯楽小説ではあるが、誰もが知る例を挙げると、コナン=ドイルが、ワトスン博士という別の人格になり切って、ワトスン博士の心中思惟や、映画でいう主観ショット、すなわちその場において語り手が見聞きしたものを語るという方法である。
 こうした一人称の小説の歴史は、世界史的に見て管見にかかわる限り、そう古い起源をもつものではない。
 西洋の文学では、人物の告白の書簡、すなわち自分の心情を誰かに伝える手紙に内面を記すなども工夫から始まった。『新エロイーズ』や『若きウェルテルの悩み』などである。それから徐々に一人称小説が始まる。書簡体ではない形で一般化するのは、まず19世紀とみていい(注7)であろう。 
 我が国文学の古典には、外国にはない形式がさまざま存在する。日記文学は、自分を飾ったり不都合なことを隠すことはあろうが、作者と別人格とは言えない。『源氏物語』などの草紙地も、語り手は登場人物とすら言えない。『大鏡』なども同じである。(注8)
 とはいえ、感情移入により、地の文に一人称の心中思惟や主観ショットが入りこむことがあった。これが我が国における一人称の語りの始まりだった。
 典型的な例は、『太平記』の第二巻(注9)日野俊基の東国へ護送されるシーンである。「白峯」の崇徳院が復讐の対象とした源義朝、平清盛が中心人物として描かれる『平治物語』(注10)である。本文は注に写したが、語り手は常盤御前と一体化して語っている。
 『太平記』にみられる、語り手の日野俊基への同一化は、『平治物語』で子を抱えて逃亡するの常盤御前と同様に、強烈な同情のしからしむるものであろう。だが、南朝方の公家である俊基の立場や思想をわがものにしたとは言えない。注で引用した箇所に明らかな通り、すぐに、地の文の中に解消されていく。だが、一時的とはいえ、他者に同一化したということは、『太平記』では俊基の心情をわがものにしたということである。
 西行は、1140年に遁世し庵居した弘川寺にて享年七十三歳で入寂したと伝えられる。1156年以降の保元の乱や平治の乱とは、同時代を生きたとはいえ深刻なかかわりはない。また、非業の死を遂げたなどの事情がないから、彼は語り手にとって感情移入しなければならない悲劇的な存在ではない。語り手は、西行の心情に同一化したのではなく、心情や感情とよばれているもの以外の精神作用、すなわち思想や志向と同一化し、語り手は、僧侶と歌人というアイデンティティをわがものにしたのだ。多くの論者(注11)が指摘するように、「白峰」は、『雨月物語』に最初になった説話であろう。また、これも既に指摘があるように、「白峯」の冒頭の、「あふ坂の関守にゆるされてより…」という表現は、作品世界という異界に入り込むこと、しかも、付言すれば、その時空に身をゆだねる現実の場所というより、むしろ心のままに「あふ」ことができない 象徴、すなわち歌枕としての「あふ坂の関」を潜り抜けて作品世界に入ること、すなわち、非現実であり非在である、きらびやかな物語どもを編み。それを仏道という視点から記述することを決定づけた。
 『雨月物語』は、「白峯」により、その基本的性格を規定したということができる。

3 なぜ、崇徳院は西行の和歌に感動したのか。
 
 では、具体的にみてみよう。
 「白峯」は、西行が復讐を続ける崇徳院の亡霊と出会い、二人のよって立つ名分を交えて語らう。崇徳院の亡霊が西行の読んだ和歌に感動し成仏するまでの物語である。
 王者である崇徳院と、出家の身である西行のよって立つものはおのずと異なる。孟子の易姓革命説が俎上に登っている。だから、読者の自然な受け取り方として 二人は論争したと思いがちである。だが、はたして崇徳院と西行は論争したといえるであろうか。
 西行は崇徳院に、成仏をすすめた。成仏とはこの場合、地上への執着を捨てて浄土に赴くことであるが、崇徳院は西行の言葉に従わない。だが、崇徳院は、浄土に赴くことを思想的に否定して拒否したとは言えない。
 二人の主張を整理してみよう。便宜上、アルファベットを付けた(Aは二か所ある)。
西行
あなた様は、保元の乱は「天の神の教へ給ふことわり」に反しないと思って起こしたのですか。それとも私利私欲のためになさったのですか。
崇徳院
A天皇の政が誤っていたら、天の命や人の希望にしたがって討つのは当然のことだ。そもそも、おまえは、出家して仏道に夢中になり、人道を因果に引き入れる。B儒教の道を仏教に混ぜて述べるのはおかしいではないか。
西行
やはり、あなた様は私利私欲から、乱を起こされました。応神天皇の死後、その子の兄と弟が帝位を譲り合いました。Aそれが、本当の儒教の道です。臣下の身である周の武王が、主君である殷の紂王を殺したことを肯定した孟子は、日本の神々がお怒りになって舟を転覆させたりして我が国に入っていません。徳を敷き和を施されず 乱という実力行使によって世を乱した 報いによって、あなた様は前例のない罰を受け、このような流謫の身となりました。
 この言葉に対して崇徳院は、「今事を正して罪をとふ 。ことわりなきにあらず。」と西行の言い分に一理あると認めている。
 だが、この「ことわりなきにあらず」の程度こそ問題である。語学的にみたら「その通りだ」という全面的な肯定を婉曲に述べたものかもしれない。また、「そうかもしれないが」「それはそうとして」程度の儀礼的な受け流しである可能性もある。
 「白峯」の場合は後者であろう。なぜならば、二人の「論争」の眼目のA(易姓革命を認めるか否か)B(儒教と仏教を混ぜて述べるのはおかしい)共に、論点が発展しておらず、すれ違いになっているからである。特に、Bの崇徳院の問題提起を無視し西行が言葉を続けている。西行は乱という実力行使をし世を乱したから報いを受けたと述べるが、仏教の因果の法則であり、易姓革命の是非とは無関係である。
 崇徳院はこう続ける。

されどいかにせん 。この島に謫られて高遠が松山の家に困められ 日に三たびの御膳すすむるよりはまゐりつかふる者もなし 只天とぶ雁の小衣の枕におとづるるを聞けば 都にや行らんとなつかしく 暁の千鳥の洲崎にさわぐも 心をくだく種となる 烏の頭は白くなるとも都には還るべき期もあらねば 定めて海畔の鬼とならんずらん.。

 従者もいない孤独の身であり、都に対して激しい望郷の念を抱えている が、それは決して叶えられない。そして、次に、大乗経を写して都に送ったが、信西の讒言によって送り返されたことを語る、そして「所詮此経を魔道に回向して 恨をはらさんと一すぢにおもひ定めて 」経文を志戸の海に沈めて呪ったと述べた。タバコを止めたいと思っても止められないかのように、思想の問題ではなく、恨みという執着を捨てきれないから成仏できないと述べているのである。「かくまで魔界の悪業につながれて 仏土に億万里を隔て給へば ふたたびいはじとて 只黙して向ひ居たりける」との西行の返事もまた、崇徳院が成仏しないのは、因縁、すなわち執着のためであるとしている。だからこそ、「ふたたび言はじ」と説得を放棄しているのだ。
 二人の話し合いは、すれ違いであり、西行が崇徳院を説得できなかった。にも拘らず、崇徳院は成仏する。
 本文にあるように、

 よしや君昔の玉の床とてもかからんのちは何にかはせん

という和歌を聞いたからである。
 この和歌の鵜月洋氏(注12)の注釈ー非常に一般的な解釈ーをみると、
「たとえ君には昔は金殿玉楼におすまいになっていたとしても、こうしておなくなりになって現世をはなれているいまでは、そんな現世の身分や優越感は何もなりません。御往生下さい」
とあり、「かからん」を亡霊になった意としている。
 だが、それでは、崇徳院の亡霊が感動して消えるはずはない。
 崇徳院の主張は、「昔天皇だったにも拘らず、流謫されて都に帰れなかった。死んでから大魔王になって復讐してやる。」という内容である。
それに対して、「昔天皇あったとしても、もう亡くなったのだから何にもなりません」と言われて、崇徳院が感動して成仏するはずはないからである。また西行は、最初から「ひたぶるに隔生即忘して 仏果円満の位に昇らせ給へ」と「心を尽くして」諫めており、死んだのだから成仏してほしいとは、初めから一貫した西行の主張である。西行が「よしや君…」の詠歌を行なったタイミングで崇徳院が感動するというのは解せないともいえる。
 ふたたび、注意深く本文の直後を読んでみよう。「刹利も須陀もかはらぬものをと、 心あまりて高らかに吟ひける」とある。
 「と」という言葉は、「…と言って」と「…と思って」の意味があるが、次の「心あまりて」とのつながりや、「吟ふ」という言葉が和歌に対して用いられることを考えると。「…と思って」が正しい。
 たしかに、西行の心中では「庶民(刹利)も高位の方(須陀)も死んでしまえば変わりません」という思いが高まった。しかし、その、西行の心中思惟であり、崇徳院には聞こえなかったのである。
 和歌の「かからん」は、直前を指している。もちろん、崇徳院が都から遥かに遠い讃岐の地で死んで地上をさまよう霊になったことも指していれば、京都で合戦が起き、院御所である三条殿すらも焼き討ちされ、源義朝、信西が横死したことなどの一連の史実や、美福門院の寿命を縮めたこと、平氏がまもなく滅びること…そして、それを崇徳院が喜んでいることを指している。そう考えて、「刹利も須陀もかはらぬものを」という思いが相手に聞こえなかったから解釈の前提にはならないということを考えると、この和歌の解釈は、ただ一つに決定づけられるものではない。
1 あなたはかつて宮中の中心人物でいらっしゃいました。しかし、その宮中は、このようにどうにもならない無慙なものです。
2 あなたは王者だった方ですが、しかし、今は、このような亡霊の境遇になったのだから、もうどうにもなりません。
3 あなたが王者だったといっても、戦乱によって人々を苦しめました。王者としてどうにもならないほどいけないことです。
4 あなたは王者でしたが、そこでの心残りや辛酸に対して、十分に復讐したのだからもう王者の地位に執着しなくてもよいではないですか。
などという複
数の解釈が考えられる。
 だが、そのうちのおそらく4が崇徳院の琴線に触れた、だからこそ、崇徳院は執着が「御面も和らぎ 陰火もややうすく消えゆくほどに つひに龍体もかきけちたる如く」と、しみじみと癒されるように消えていったのである。
 さらにここで注意しなければいけないのは、鵜月氏の解釈も、1〜4の解釈も、互いに互いをまちがいだと排斥しあうような唯一の解釈ではないというところである。同じ現実、同じ出来事の異なる断面なのであり、当事者が意識化した意味づけである。
 4の意味を選び取った崇徳院は、成仏した。
 自分を理解し、肯定してくれたと錯誤したのだ。

(続く)
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