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2023年04月09日16:30

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来週が問題

「コミュニケーション入門」
来週の第二回が問題。
哲学や文化人類学が入ってくるからです。

チビがアニメ見ている間に、構想を練っています。

やはり、学会発表ではないですが、間違えられないときは、話す原稿を作っていくのが一番。アドリブはこけなくても、ストレスがひどく、夜にはくたくたになります。

文化人類学のところで、MMTには触れようと思います。そうでなければ、私が受け持っている意味がありません。

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第二回 講義

 古来からさまざまなジャンルの学者が、コミュニケーションすなわち、言語の使用や人間関係を究明することにより、さまざまな目標を達成しようとしました。
その目標は、「人間の営みの根源に迫ろうとする」
「社会を構築する」などさまざまあります。
 まずはそうした先人の営みを見てみましょう。


1 人間の営みの根源に迫ろうとするもの。


文化人類学
https://ja.KUTIKUTI.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%AD%A6

たとえば、兄と妹が結婚してはいけないというルール(近親相姦の禁止)は、民族を問わず世界に普遍的にみられます。なぜでしょうか。一般には、遺伝的に不利であり、子どもの健康に重大な影響があるからと考えられています。しかし、本当でしょうか。
室町時代の足利氏と日野氏が好例です。足利氏の兄弟が、それぞれ日野氏の姉妹をめとるということを延々と繰り返す場合もあります。
この場合、足利と日野の血は、濃く交じり合います。したがって、近親相姦が遺伝的に不利であるからいけないなら、そのような関係もやめなければならないので、この観点から近親相姦の禁止を完全に説明することはできません。

こうした、人間の営みの根源を究明するのが、文化人類学です。日本の場合、社会学の一部となっています。文化人類学を勉強する人は、社会学部に入ることになります。

文化人類学が重視するものは、ズバリ、コミュニケーションです。

文化人類学の始祖の一人、マリノフスキーは、トロブリアンド諸島に伝わる「クラ」という名の、腕輪と首飾りを島から島へと渡す財産の交換が、経済活動だけではなく、社会秩序や宗教的な秩序を作り出しているとしました。

モースは、交換こそが社会であり、市場などの交換体系が存在することこそが人間を人間として成立させている要素であるとしました。必要があって交換する、つまり、価値がある品物を手に入れるために交換が行われるのではなく、交換それ自体が「クラ」のような未開社会の交易の目的だったという考えです。

モースの研究は、今なお斬新です。我々は貨幣について、「誰もが欲しがる金(貴金属のgold)が貨幣として通用した。金の預かり証が流通し、最初は金と交換できた(兌換紙幣)が、そのうち交換できなくなった(不換紙幣)。それが現在のお札である」と習いました。ところがこれが間違いであり、貨幣が出来上がるはるかに前(紀元前3500年のメソポタミア)の段階で信用取り引きや貸し借りの帳簿があったことが明らかになっています。また、マリノフスキーが研究した「クラ」の交換に使われるソウラヴァやムワリという品物も、それ自体には価値がない貝殻などですから、皆が欲しがる金が貨幣になったという説や、交換のために貨幣ができたという説は、間違いです。

今、貨幣論は歴史の転換期に立っています。交換(ということは人と人とのコミュニケーション)をキーワードとして、貨幣は何かという経済の基本が再び議論されるときを迎えています。 MMTという新しい理論が出たからです(これについては、長くなるので言及しません)

話を元に戻しましょう。先に上げた、近親相姦の禁止は、レヴィストロース、マーガレット=ミードによって、他の部族とのコミュニケーションを確保するためとされています。たとえば、妹を嫁にやると義理の兄弟ができる。そうやって未知の人々とつながりあうのがコミュニケーションであるということです。

 こうした文化人類学者の研究を読むと、コミュニケーションには、目標がある場合もありますが、コミュニケーションそれ自体が目標である場合もあるという示唆を受けます。入院している人は、互いに友達になろうとしなくとも、話すことそれ自体を救いにしています。コロナのおかげで、ステイホームはわかるとして、たとえば、さして親しくない、定食屋のおばさんと話が出来ないということが、どれほど我々の気を滅入らせているのかを考えれば、納得できます。
………………

ここまでの参考文献

『文化人類学入門』祖父江孝男
『貨幣の複雑性〜生成と崩壊の理論』安富歩
『インセスト幻想—人類最後のタブー』原田武



哲学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6#%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%AF%BE%E8%B1%A1%E3%83%BB%E4%B8%BB%E9%A1%8C_2

 本学でも必修科目になっている、存在や思考の本質について考える学問であり、言語と切っても切れない密接な関係があります。
 デカルトが、有名なコギト(あるとき、私はいろいろなことを疑い、自分の存在すら疑った。しかし疑っている以上、私は何らかの形で存在するという、自己の存在の証明。)により、自分が存在することを証明したといわれます。ピエール・ガッサンディやビアス、パスカルなどが批判しています。その批判の論点は、言語の問題です。

たとえば、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86%E3%80%81%E3%82%86%E3%81%88%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A
にあるビアスの批判は、デカルトが「我=自分」を考える主体としての「我=自分」という偏った意味で使っているという批判、すなわち、言葉の使い方の批判です。

コミュニケーションのツールである言語は、同時に考えるツールです。
全ての哲学者が言語やコミュニケーションについて考えたといって過言ではありません。その中でもこの項目の「人間の営みの根源」に該当する領域を研究した人を一人だけ上げます。

ウィトゲンシュタイン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3#%E4%B8%AD%E6%9C%9F%E5%89%8D%E5%8D%8A%EF%BC%9A%E3%80%8E%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84%E6%96%87%E6%B3%95%E3%80%8F

私(本間)は、ウィトゲンシュタイン研究家としてではなく、趣味人としてウィトゲンシュタインを読んでいます。この思想家の著作の解釈には様々な説があります。私は皆さんの哲学を担当していませんので、深入りして述べないことにしますが、
語ることができるもの(世界内の出来事)と、語ることができないもの(自由、倫理、神…など、指し示すモノがはっきりとは決められず、出来事とは言えないもの)を区別し、無意味な言語の使用をやめるようにといているととらえていいでしょう。大変示唆に富む思想家です。
 
 ………………

ここまでの参考文献
『方法序説』 イースト・プレス文庫(まんがで読破)
『デカルト『方法序説』を読む』谷川多佳子
『言語行為の現象学』野家啓一
『ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』野矢茂樹


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