昨日の話の続きです。
まずは、デカルトのコギトを説明します。
デカルトは、もしかしたら自分が見ているものや感じとっているものが、全て噓かもしれないと考えます。
まあ、胡蝶の夢(荘子が夢の中で蝶になったという故事)を思い浮かべればいいですが、夢の中で違うものになっていてそれを信じ込んでいるという事態はあり得ます。
ところが、自分の存在は疑うことが出来ない。疑っている限り、何らかの形で自分が存在しているはずだからだとデカルトは言います。
それが、「我思う、故に我あり」であり、ラテン語で表記したものが、cogito, ergo sum.です。(「思う」のこの場合の文脈上の意味は、疑うという意味です)
ところが、ビアスは、
cogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う」)
とするべきだと言います。
その通りです。「我思う」とデカルトが言った瞬間、「我」が存在することが前提になっているからです。
だから、あくまでも「我思うと思う」であり、「我」も「思う」も、すべてが幻だという可能性があります。
幻でないとしても、この考え方で行けば、腹が出て、「やっちゃん」という名前でSNSをやっているこの私ではなく、いろいろなことを判断している精神の主体としての私が証明されたにすぎません。
精神の主体は、個性がありません。
たとえば、われわれは解の公式がわかります。その人にしかわからない公式などないですから、理性の働きは無色透明で無個性です。
ちなみに、この考えの初出は、原始経典那先比丘経です。ビアスの発明ではないです。お経を知らなかったから、パクリではないでしょう。
こんなに雑なのに、証明を求めたいのは、「オレがオレが」という自我です。
しかも、証明を求めているのは、この世を超越した自我ではなく、みんなに認められたいのですね。
「オレがオレが」が肥大すれば、子孫なんて無関係になるでしょう。戦争もし放題になるでしょう。
因みに、私はデカルトのコギトを高校生ころ知って自信を持ちました。世界の偉人でもこの程度か…と。
漱石は、「人間は長い歴史の中でこんな当たり前のことしか思いつかない愚かな生き物だ」と『吾輩は猫である』の名前がない猫に言わせています。
ビアスや、那先比丘経の進んでいる点は、「すべてが幻だ」という諦観に至る道を開いたことでしょうか。
また、人間が、まるで二次方程式の解の公式が本当に成り立つかを検証する無色透明の判断主体になり、当事者性を失うことに気が付いていたのかもしれません。
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