■チェルノブイリ原発、外部からの電源供給停止 占拠され修理不可能か
(朝日新聞デジタル - 03月09日 22:37)
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子孫。
私も子どもはいます。
子どもというのは、非常に観念的なものです。たとえば、今の子どもが、産院の取り違えなどによって自分の遺伝子が入った子でないとしても、いささかも愛情は変わりません。巷間「生みの親より育ての親」と言います。
しみじみと「この子は我が子だ」という体験があったら、我が子になります。
また、家族は、社会学でいうゲマインシャフト(Gemeinschaft)の最たるもの。機能ではなく感情的に結びついた共同体。
ゲマインシャフト(Gemeinschaft)は、それを形作る自然的な本質意思 (Wesenwille)というのがよくわからない概念だから、外延が曖昧です。提唱したテンニエスが友情で結びついた都市まで挙げているのには違和感を覚えます。都市の公共性の伝統が日本といかに異なっているかでしょうが。だれか「本質意志」などの概念に詳しい人がいたら教えてください。だが、要するに「切れない」関係でしょう。
子どもが成績が悪くても縁は切るつもりはありませんし、刑務所に行っても同じです。
しかし、自分にとって、孫子、ひ孫くらいまでは、実在します。観念である以上、それより先の未だ見ていない子孫も実在する者と同等に考えるべきでしょう。しかし、それができない。
だから、原発などというものを作る。
事故が起きなくても、廃棄物は永遠に管理しなければいけません。凶悪な暴力団から金借りて、子孫に返還義務を負わせるようなもの。
なぜ、抽象的な子孫というものを思いやることが出来ないか。
証明による正当化を求めるようになったからです。
たとえば、コギト。自己の存在証明ですが、こういうことに意義を感じるようになったからこそ、未だないものの価値を実感できなくなったと思います。
自分が証明できないということと、存在とは無関係です。
その「証明」とやらにしても、Je pense, donc Je suis.(Ithink,therefore Iam.)のbe動詞に該当する部分に、「存在する」という意味が含まれているから、トートロジー(同語反復)だという指摘は、早くからあったはずですが。
また、アンブローズ・ビアスが『悪魔の辞典』で、
「我思う、故に我あり」は、cogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う」)とするべきだとにべていますが、その通り。
証明できたとしてもせいぜい、判断する主体です。
判断する主体(soi)は、私そのものではありません。
私は、判断する主体に、しばしば振り返られ反省される対象であるからです。
にもかかわらず、こういう問題が重大視され、「オレがオレが…」から、「オレしかない」「子孫なんて知らない」…となりました。
そして、証明されないものはない、今ここにないものは存在しない…という理屈がさも正しいかのように受け入れられれば、原発が流行るのも当然です。
「見えないものが大切だ」と言われます。スピリチュアルな文脈もあるでしょうが、基本の意味は、こういう偏狭な自我に拮抗する良識だと思います。
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