mixiユーザー(id:12410478)

2017年04月28日23:20

1434 view

公案としての「夢應の鯉魚」上

公案としての「夢應の鯉魚」
                                本間 也寸志

1 『雨月物語』としての「夢應の鯉魚」
「夢應の鯉魚」は、ほのぼのとした明るいだけの説話のように思われるが、子細に読み込むと、強い違和感を覚えざるを得ない説話である。後述するように、放生の功徳の物語に似ていながら、決して放生の功徳の物語とはいえないという点、なぜ、鯉に化した興義が、見えないはずの平の助の館の様子を細部までまざまざと見ているのかなどの諸点である。この問題を考える前に、『雨月物語』(注1)全体の結構を振り返ってみよう。
『雨月物語』は、「白峰」「菊花の約」「浅茅が宿」「無応の鯉魚」「仏法僧」「吉備津の釜」「蛇性の淫」「青頭巾」「貧福論」の九編の説話によって成立している。黄金の精が自説を開陳する設定となっており、妖異を巡る物語的転回の乏しい「貧福論」はともかくも、他の説話は、全て、観念であれ色欲であれ、何かに囚われた人間の悲劇を題材としている。「夢應の鯉魚」だけが、放生の功徳によるハッピーエンドの説話であると考えるのは、非常に不自然である。「夢應の鯉魚」もまた、凡俗の蒙昧がテーマとなっているのではないか。早くから高田衛氏の指摘(注2)があるが、氏が述べるように「『雨月物語』は単なる短編の集成ではなく、一編の脱稿が次の一編の主題の形成を促し呼び起こす」結構が考えられているかどうか、そこには別の解釈も可能であるかのようにもみえるが、『雨月物語』が緊密な計画性の元に書き進められていることは異論がないところであろう。そこで、是非再検討の必要があるのは、最後の「貧福論」である。「貧福論」は、黄金の精という変化の存在が出るとはいえ、物語的な展開や事件性のある説話ではない。かつて拙論(注3)で提起したように「青頭巾」こそが事実上掉尾の作品であるが、その後に補足あるいは結論として「貧福論」がおかれる意義は、一体、何か。
金銭の徳を称揚していることから「近世町人が経済的営為の辛苦や悲哀の中から、自己開発していった現実認識の一表象」とする解釈(注4)や、徳川の天下の到来を語っていることから「為政者への慶賀的ポーズ」とする解釈(注5)は決して間違いではないが、一面的なものである。こうした解釈は、全体の結構を打ち破るどころか、各説話の深刻な悲劇性を打ち消してしまうことになろう。「貧福論」は、夢枕に立った黄金の精の口を借りて

…佛菩薩は名聞利要を嫌給ふとこそ聞きつる物を。など貧福の事に係づらひ給ふべき。さるを富貴は前生のおこなひの善りし所。貧賎は悪かりしむくひとのみ説なすは。尼媽を蕩かすなま佛法ぞかし。貧福をいはず。ひたすら善を積ん人は。その身に來らずとも。子孫はかならず幸福を得べし。宗廟これを饗て子孫これを保つとは。此ことわりの細妙なり。おのれ善をなして。おのれその報ひの來るを待は直きこゝろにもあらずかし。又悪業慳貪の人の富昌ふるのみかは。壽めでたくその終をよくするは。我に異なることわりあり。霎時聞せたまへ我今假に化をあらはして語るといへども。神にあらず佛にあらず。もと非情の物なれば人と異なる慮あり。(第七巻

と述べる。「非情の物」とは、言うまでもなく直接には金銭を指すが、重友毅氏の「…黄金の精は、もと非情のもので、神や仏と違って人の善悪に干渉することなく、ただおのれを厚遇する者のもとにのみ集まるものであるからだ、ということになっている。こうしてせっかくの卓見も、黄金に精霊があるという神秘思想に芽生えた空しい想念として終わらせざるを得ないことになっている」(注6)という論評に代表される「貧福論」を単なる黄金の精の妖異譚とするみかたは、岡左内(定俊)が聞き手として登場する必然性がない。
よく知られるように、『常山紀談』(注7)には、左内の事跡を紹介した箇所がある。伊達政宗が上杉領を侵略し、激戦となった松川合戦の際に、左内が伊達政宗に切りつけたエピソードとともに、「貧福論」に採られている、「金銀を山の如く積て、其の中に臥てなぐさみとしける」「岡野(引用者注 岡左内のこと)が馬取の下部、大板金一枚持ちたりと聞き及び呼び出して、汝が志こそゆゝしけれ。人は貴賤によらず、貧しくては義理のなすべき事も心ばかりにて叶ひがたし。よく心がけたり、と云て黄金百両與へたり。」といった叙述が続き、さらには、「景勝会津に兵を起こす時、永楽銭一萬貫文を獻じ、朋輩の親しみ深き人々にはあまた黄金をわかち送りけり(中略)政宗三萬石にてまねかれしかど、舊主の好み忘れ難しとて、蒲生秀行に仕へ、猪苗代の城にあり。下野守忠郷の時死しけるが、金子三千両正宗の刀を獻じ、忠郷の弟中務にも金子三千両、景光の刀貞宗の小脇指をかたみにまゐらせけり。年頃人にかしける金銀の手形證書の大なる箱にありしを、皆焚すてたりしとぞ。」という「貧福論」にはない、敢えて言えば、読者への謎かけかけとして隠されているともとれる、左内の所為が書かれている。
武士としても一頭地を抜く存在であり、熱心なキリシタンでもあったと伝えられる左内は、決して金欲に囚われた者ではなかった。金銭の用と徳を知悉した者であるからこそ、黄金の精は左内に語りかけているのだ。「貧富論」が因果応報を否定する思想を述べているとは、先学(注8)の指摘があるところである。金銭の持つ神や仏を超越した慮りとは、「富貴のみちは術にして」と黄金の精が述べるように、因果応報や勧善懲悪など、凡百の僧侶が説く言説、人口に膾炙された方便の説法を超越している現実の原理のことである。宗教家が説く倫理や道徳は物語であり解釈であるが、解釈の前に現象をみよと言っているのだ。
「白峰」の崇徳上皇は、西行の説く『孟子』の易姓革命が日本に伝わらなかった所以を理解せず、偏狭な名分と感情にこだわり悲劇を深めた。「菊花の約」(注9)の左門は、宗右衛門の語る虚偽の経久像を鵜呑みにし、宗右衛門をいわば美しく誤解して理の合わぬ仇討をする…と、ここでは全てを語れないが、全ての説話が、現象を恣意的に、あるいは誤って解釈した者の悲劇が語られている。現実をあるがままに受容すれば、各説話の恐怖も氷解し、一面の真理でしかない金銭を穢れたものとみなす考えも相対化される。「貧福論」もまた、「夢應の鯉魚」同様に「お前は、この話を守銭奴の話とみるか」という問いかけになっているのだ。
さて、それは別の話として、「夢應の鯉魚」の説話の現実をあるがままにみるとは、とりもなおさず本文を正しく読むことに他ならない。その正しい読みの条件の一つは、「貧福論」「菊花の約」「青頭巾」同様に登場人物の事跡を踏まえることである。実在したがマイナーな人物であるから、特にその人物を主人公に擬した必然性を踏まえてほしいという秋成のメッセージがそこにあると私は考えるのだが、「夢應の鯉魚」の興義もまた同じである。
「夢應の鯉魚」の興義の名は、絵の名手として、『古今著聞集』に「成光、閑院の障子に鶏を書きたりけるを、実の鶏みて蹴るとなん、此成光は、三井寺興義が弟子になん侍る。」(国史大系第19巻「古今著聞集,愚管抄」224pによった)と記載される。また、山崎芙紗子氏の指摘(注10)があるように、『本朝画史』の「上古画録」には、弟子成光とともに、「僧興義曾住江州三井寺有画名。成光姓未詳曽画雞於閑院障子。其後生雞来蹴之。其画法学僧興義」と、『古今著聞集』や「夢應の鯉魚」と同じ内容がある。『本朝画史』は、1675年という成立年代から、『古今著聞集』を引き写したと考えるべきであろうが、「夢應の鯉魚」執筆当時、興義が三井寺の僧として実在したと考えられていたのは疑いようがない。知名度が低い人物であるから、興義を絵画に秀でたある僧侶と抽象化して考えるわけには行かず、他ならぬ三井寺の僧侶が、鯉を放生し、病にかかって蘇生したという説話として捉える必要がある。すなわち、『法華経』「観世音菩薩普門品第二十五」を本門の重要経典として朝の勤行で欠かさず誦称する、加持祈祷をこととする宗派の僧侶として。また、開祖が放生会を仏事として始めた宗派の僧侶として。
仏事としての放生会は、中國天台宗の開祖智�擇�、『金光明最勝王経』「長者子流水品」に基づいて行ったのが最初である(注11)が、放生会を秋成はどう見ていたか。日本文学における最も著名な放生譚は、いわゆる浦島の説話であろう。この説話に対して、秋成は、『遠駝延五登』で、「あらぬ事ともを有りし如に作りなせるは、文国のさかしらの過たる也。こゝにもならひて云は、柘枝の仙女、竹取の翁、松浦川の漁児、琴娘子の類也。」と、話に尾ひれを付ける風潮を戒めながら、次のように述べている

…さて此大亀を得て夫婦となりし事、後世の書ながら、古今奇観と云聖歎外の作文に、妖亀の、少年の閑雅に婬みて美女と化し、情慾をほしきまゝにせしかば、少郎遂におとろえて死ぬべかりしを、道士に呪なはれて命全く、亀は終に亡ぼされし事をいへり。(全集第一巻67P)

妖亀の房事の相手として現代風に言うとイケメンの浦嶋が引き留められたとは、身も蓋もない解釈であるが、浦嶋説話の尾鰭を付けた捏造についての文献学的な批判ではなく、「こゝにもならひて云は、柘枝の仙女、竹取の翁、松浦川の漁児、琴娘子の類也。」とある以上、「浦島」説話のみならず、放生譚を含む異類変身譚へ疑義であり、蔑視以外の何ものでもあるまい。
また、「夢應の鯉魚」のモデル、実在の僧侶である興義が属した天台宗の教学については、『膽大小心録』にて、決定的な否定の論評がある。

観音の念彼の巻をよみて見れば、どんな事しても助かる事のやうな、切支丹の天師のやうな御利生しや。(全集第九巻140P)

この「観音の念彼の巻」とは、『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」(注12 いわゆる「観音経」)にある偈頌、「…假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑變成池 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没…」と、火の坑に落とされても火の坑は池に変わる。大海を漂流しても沈まないなどと奇跡の記述が延々と続く有名な偈であるが、切支丹を引き合いに出しているところから、秋成は揶揄しているのは明らかだ。『法華経』が提起する思想やそれにまつわる言説は多岐にわたるが、その中の方便的側面を批判しているのであるが、方便というものを、愚かな大衆を教化するために作った虚妄とすれば、この下りは、『法華経』に別にある「方便品」以上に方便的である。
秋成は、次のように方便を一顧だにしていない。

仏氏方便品をとく。実に方便にして、人界に無益也。和漢にみる所許多なれば、あぐるに煩わし。よくいつわりたるは、実ならねども興あり。わろきは女童もうけずして、実ニ無益なり。信ずるものはおのが愚にひかれてまよふのみ。(『膽大小心録』全集第九巻201P)

秋成の仏道批判は、堕落した僧侶への批判が多い。しかし、教義に関して批判したわずかな部分(注13)は、大部分が方便批判に向かっているのである。
以上のことから、「夢應の鯉魚」が上田秋成の著作であり、『雨月物語』に編まれている物語である以上、放生の功徳の物語と考えることも、『法華経』を奉ずる天台宗の僧侶である興義の仏道を嘉して「夢應の鯉魚」が創作されたという解釈も、到底、できない。秋成は、三井寺の活動の根本に疑いを抱いていたのであり、その延長に、「夢應の鯉魚」が描かれたと考えるべきである。では、「夢應の鯉魚」とは、どんな物語であろうか。この説話のありのまま、現実というものはどうとらえるべきなのであろうか。

2 画鯉、果たして泳ぎしや。
「夢應の鯉魚」読解の第一の問題は、「放生の功徳」である。興義は、確かに長年にわたり、魚を放生した。とはいえ、それに対する功徳について、海若(わだつみ)の使いである「冠装束したる人」は「老僧かねて放生の功徳多し。今江に入て魚の遊躍をねがふ。権に金鯉が服を授けて水府のたのしみをせさせ給ふ。」と述べており、決して、興義の蘇生や長命、画業の入神の練達等を功徳の果報として約束しているのではない。第一、興義は健康なころから、夢の中で魚となって湖水に遊んだという経験を重ねており、提案された「水府のたのしみ」をすでに幾度も得ている。鯉に変身してから、「餌の香しきに昧されて。釣の糸にかゝり身を亡ふ事なかれ」との戒めを守らなかったがために文四に釣り上げられたが、それを、「冠装束したる人」が、興義を鯉に変身させた上で、餌に食いつくなという戒めをわざと破らせて、文四に釣り上げさせて興義を蘇生させた、と幾重にも屈折させて捉えることは、到底、与しえない考え方である。このあたりから、興義をめぐる、いわゆる「超常現象」のいかがわしさをこそ思うべきであるが、     紙繭の鯉魚が琵琶湖を泳ぐシーンに至って、このいかがわしさは決定的なものとなる。やはり、本文の正確な読解の鍵は、「菊花の約」と同様、末尾にあった。
「夢應の鯉魚」の鯉は、中村幸彦氏(注14)など多く先学の指摘があるように、葛蛇玉の鯉魚図がそのモデルとなっている。その蛇玉について、井上泰至氏は、『「闇」の絵師葛蛇玉ー『雨月物語』「夢應の鯉魚」の新たな読みへー』(注15)にて、実に示唆的な指摘をしている。氏は、玉をくわえた蛇からその玉を与えられるという夢を見、目覚めると実際にその玉があったという体験を契機に、号を「蛇玉」と改めたという趣旨の、「蛇玉図」の左にある河合鹿門の賛(注16)を引用する。夢中に蛇が玉をくわえて出現するのは、まだしも、「牀上覚然得一�Αz�々如玉」と、夢中の蛇の玉を目覚めてから得るなどという話は信じがたい話であるが、井上泰至氏は、

…夜光の玉の不思議な体験が、この画家のトレードマークとなっていったわけだが、この話はどうも胡散臭い。「蛇玉図」は図柄こそ異同があるが複数残っており、しかもこの賛は刷り物だからである。つまり蛇の玉を得たという説話は、宣伝用でもあったようだ。

とする。上方の濃密な文化人の関係性を思えば、秋成もこの刷り物の話を耳にしていた可能性が高い。刷り物の賛の話を知らなくとも、蛇玉の蛇の玉を得たという話は耳にしていたに違いない。「夢應の鯉魚」のラストシーンは、『古今著聞集』の内容をそのまま忠実に引いたかのようにみえるが、鯉魚が泳ぐシーンだけが創作されている。つまりは、葛蛇玉の虚偽の自己宣伝のエピソードを意識して執筆した部分は、鯉魚が泳ぐシーンであるとするべきである。まずは、「夢應の鯉魚」の末尾の部分を正確に読んでみよう。

…興義これより病愈て杳の後天年をもて死ける。其終焉に臨みて画く所の鯉魚数枚をとりて湖に散せば。画ける魚紙繭をはなれて水に遊戯す。こゝをもて興義か絵世に傳はらず。其弟子成光なるもの。興義が神妙をつたへて時に名あり。閑院の殿の障子に鶏を画しに。生る鶏この絵を見て蹴たるよしを。古き物がたりに載たり(同第七巻

成光は障子に鶏の絵を描いた。それを生きている鶏が蹴ったことを、「興義が神妙をつたへて」と書かれているが、成光の描いた鶏の話は、絵に過ぎない鶏を、生きた鶏が本物の鶏だと思って蹴ったという内容であり、決して、成光が描いた鶏が生きて動き出したという内容ではない。「興義が神妙」も、本当に画中の鯉が生きて泳ぎだしたという超能力的な神妙ではなく、絵に描かれた図像に過ぎない鯉が本当に生きているように見えるという「神妙」に他なるまい。蛇玉の「鯉魚図」(図 )には、写実的な回転して跳躍する姿が描かれているが、この絵を、湖でありながら、海のように水際に波が寄せる琵琶湖に放したらどうなるだろうか。湖畔に打ち寄せる波は、白くなって時折見えなくなる。紙繭はチラチラと、波になぶられて回転した姿を見せることだろう。映画やアニメーションのように、見る人に動いている姿を刻み込ませる。やがて、墨で描かれた紙繭の鯉は、琵琶湖の水へと溶けだしていくだろう。これこそが、興義の「神妙」である。
鯉魚は、泳ぎ出さなかったのだ。


2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年04月>
日 月 火 水 木 金 土
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30