昨夜は、ある施設の一部リニューアルの内覧会があって招かれたので出席しました。
アルコールも出ましたし、後輩などもいたので、
ついつい長居をしてしまいました。
今日の午前中、県立博物館に行く用事がありましたが、
考古学の企画展もやっていましたので、ついでに見て来ました。
特に栃木県の考古学を築いた人々と言うのに興味がありました。
栃木県の考古学は徳川光圀に始まります。
江戸時代は水戸藩領だった旧湯津上村で、那須国造の碑が発見されました。
この碑に述べられた葦提と言う人の墓ではないかと、
碑のあった近くの上侍塚・下侍塚古墳を
佐々宗淳(水戸黄門の佐々木助三郎のモデルです。)に発掘させたのが光圀でした。
佐々は更に地元の大金重貞に命じ発掘させます。
この古墳が築かれたのが4世紀頃で国造の碑は西暦700年に建てられていますから、
当然被葬者は違います。
発掘後、埋葬品などは全て記録を取って、再び埋め戻しを命じています。
このため、日本の学術的な発掘の最初と言われていますし、
墳丘に松の木を植えて地元民に維持保存させた事から、
文化財保護の観点からも高く評価されています。
江戸時代の寛政の三奇人の1人で、宇都宮出身の蒲生君平も重要な人です。
荒廃していた天皇陵を歩いて、「山陵誌」を著します。
この中で、初めて墳丘を「前方後円」と表現し、
これが現在の前方後円墳になっています。
僕は高校時代、県立図書館主催の考古学講座に参加した事があります。
その講師をしていたのが、大和久震平先生でした。
当時は教育委員会の文化財保護課に在籍されていたのだと思います。
この講座では、座学だけではなく
マイクロバスで県内の遺跡にも連れて行ってもらいました。
縄文時代早期の大谷寺遺跡、現在の下野市の国分尼寺跡などでした。
国分尼寺跡は発掘の途中で、それを大和久先生が指導していたようです。
国分尼寺の近くに下野薬師寺がありますが、道鏡が左遷されて来た寺として有名です。
国分尼寺の尼さん達は、都のスーパースターが来たので、
一目見たいと騒いだと思いますと先生が言っていたのを覚えています。
大和久先生についても紹介されていました。
45年ぶり位で先生の写真を見て、その風貌や話ぶりなどを思い出す事が出来ました。
もっとよく見ていたかったのですが、
一緒の人もいたので、余りゆっくり出来ませんでした。
改めて行ってみようかと思っています。
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