年のうちに春は来にけり 一年をこぞとや言はむ今年とや言はむ。
(年内に春が来てしまったことだ。一年を去年とよんだらいいだろうか、今年とよんだらいいだろうか。 古今集 春1)
古今和歌集は上記の歌から始まります。
季節感を大切にして読んでほしいという編者のメッセージがあるのでしょうか。
その季節感にしても、現在の季節と暦上の季節のズレや二重投影の問題、さらには現在の季節感の無化の問題があるようです(永藤靖、平野仁啓)
昨日は、
なぜ、桜と雪という組み合わせが詠まれなかったのかを考えました。
桜と月食については、月は浄土の光です。その月が欠けたという禍々しいものは、詠まれないでしょう。
なぜ、あれほど季節の変わり目についての歌があるのに、月と雪は詠まれないのか。
寝てしまいましたが、起きて気が付きました。
百年に一度の奇跡だったからです。
だから詠まれないのです。
ここは、
漢詩と共通しています。
故人西の方黄鶴楼を辞し…
という、李白が孟浩然を送る七言絶句は、
唯見る、長江の天際を流るるを
で終わっています。
名残惜しい別れに際しては、
誰しも、茫然として長江が天に向かって流れているのを立ちすくしてみるしかない。その別れの心情を歌います。
誰もがそう思うことを歌う。
これが唐の詩です。
桜に雪
こんなものを見れたのは、我々の世代だけです。
平安時代にそういう現象があったとしても、だれもが味わえることではない。
だから、詠まれなかったのだ、と気づきました。
そのような、人間の心情の共通点は、今、どうなっているでしょうか。
花鳥風月はともかく、
戦争に巻き込んで命を落とした方が多くいらっしゃった、
パラオや、中国の方に申し訳ない、
原発みたいなものが稼働しているのはおかしい、
自分の子供や孫を戦場に追いやりたくない
どれも、普通の心情だと思います。
この普通の心情は、どうなったのでしょうか。
詩歌の近代は、独創性という名の個人性に向かいました。
それは素晴らしいことで、多くの成果があります。
しかし、独創でも何でもない、
他人から吹き込まれてその気になっただけの
価値のない
異常心理というものがはびこっています。
…自分は、いつ首になるかわからない派遣で、埼玉のボロアパートで、円安のせいで高くなったカップ麺すすって長距離通勤しているのに
株価上昇を喜ぶ。
倒錯以外の何物でもないのですが。
■8日は関東甲信で真冬並みの寒さ 宇都宮では桜も雪化粧
(ハザードラボ - 04月08日 11:10)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=187&from=diary&id=3360842
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