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2026年09月28日03:22

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恵那紀行14 明智八王子神社 / 龍護寺

 8月20日木曜日は絵画館から北上して、天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)・天穂日命(アメノホヒノミコト)・天津彦根命(アマツヒコネノミコト)・活津彦根命(イクツヒコネノミコト)・熊野久須毘命(クマノクスビノミコト)・ 田心姫命(タゴリヒメノミコト)・湍津姫命(タギツヒメノミコト)・市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)を祭る明智八王子神社〔村社〕を訪れました。祭神は全て天照大神(アマテラスオオミカミ)の子供達です。 
https://www.google.com/maps/place/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@35.306173,137.3903923,19z/data=!4m6!3m5!1s0x60035385c7bf34af:0x212c4b7444c52d3e!8m2!3d35.3062025!4d137.3911469!16s%2Fg%2F11h31w_t19?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI2MDkyMy4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D
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 社伝によると、天暦3(949)年の勧請(カンジョウ)とされ、平安時代には2000石を領して多数の神人(ジニン)を抱え、明知・高波・串原・浅谷等の諸村を事実上治めていたと伝わります。鎌倉時代になって明知遠山氏の統治が始まると、その崇敬を集めました。
 天正2(1574)年、甲斐の武田勝頼が東濃へ侵攻、明知城攻防戦が開始されると、八王子神社禰宜の丹後は明知城主遠山友治に協力して戦闘に参加、強弓で敵兵5〜6人を倒し、怯(ヒル)む武田勢へ斬り込んで奮戦しましたが、深手を負って山中に退いてから亡くなりました。部下の禰宜24人も戦死し、社殿は武田勢に焼き払われてしまいました。
 その後は小社のまま残されていましたが、寛永14(1637)年、明知陣屋の交代寄合遠山勘左衛門が、八王子神社に祈って世嗣を授かったことを喜んで、小杉村の内で50石を社領として寄進、同時に新しい社殿を造営しました。
 延宝4(1676)年、交代寄合遠山伊次によって現在の社殿が造営されましたが、建築費は米・麦・大豆を除き、金七百両を費やしたと伝わります。大きな木材は三河国加茂郡牛地村から伐り出し明知まで搬送しましたが、その延人数は大工7347人・木挽632人・葺師(ハナダシ)1630人・絵師194人に及んだとされます。
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 神門〔岐阜県指定文化財〕です。江戸時代初期に建てられた白鷹城(明知城)の城門を移築したと伝わる銅板葺の唐門です。
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 拝殿〔岐阜県指定文化財〕です。銅板葺入母屋造(イリモヤヅクリ)ですが、本来は柿葺(コケラブキ)でした。
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 本殿〔岐阜県指定文化財〕と幣殿〔岐阜県指定文化財〕です。本殿は銅板葺三間社流造ですが、やはり本来は柿葺でした。
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 社殿は本殿・幣殿・拝殿が一体的に構成されている権現造で、江戸時代初期の建築です。
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 戎大神(エビスオオカミ)を祭る摂社恵美寿神社です。
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 明智光秀手植えの楓です。
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 柿本人麻呂(カキノモトノヒトマロ)を祭る摂社人麿神社です。
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 明智光秀が建立(コンリュウ)したと伝わります。
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 八王子神社の東隣には臨済宗妙心寺派大明山龍護(リョウゴ)寺があります。
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 この寺院の前身は、大永元(1521)年に明知城の北の楞厳院(リョウゴンイン)境内に柏庭宗松(ハクテイソウショウ)が開いた塔仙坊なる草庵でした。柏庭宗松は、元は京都の妙心寺に居ましたが、三河東加茂郡萩平の三玄寺を経て、塔仙坊に落ち着いたと伝わります。
 慶長元(1596)年、当時は内大臣徳川家康に従って上総国にいた旧領主遠山利景(1540〜1614)が楞厳院を改めて一族の菩提寺として龍護寺を開基し、三玄寺五世の椽室宗採(テンシツソウサイ)を招いて開山としましたが、開山直後から覚巖(カクガン)が法嗣を継いぎました。
 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦に際して旧領奪回に成功した遠山利景は、慶長8(1603)年に6531石の交代寄合となったため、寺領として杉平村の30石を充てましたが、後に御蔵米30俵(1俵=3斗5升)に改めています。また、遠山氏の菩提寺と定められ、遠山氏領内にある萬勝寺・観音寺・長楽寺・妙見寺が龍護寺の末寺とされています。
 なお、利景の父景行は明智光秀の叔父明智光安と同一人物だとの系図もあります。
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 このため、光秀が所有していたと伝わる直垂の布が縫い込まれた袈裟が寺宝として伝わっています。九条衣と呼ばれる袈裟の四隅に直垂の布が縫い込まれた四天王と呼ばれる物で、本能寺の変の後、落武者が塔仙坊へ持参して光秀の永代供養を頼んで立ち去ったとされます。晋山式と住職の葬式以外では門外不出の什宝として大切に保管されてきたが、毎年5月3日に開催される光秀まつりの時には、供養を兼ねて一般に公開されます。
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 山門です。
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 本堂です。本尊は釈迦如来。
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 庭園です。
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 明智光秀霊廟です。中には光秀の供養塔と伝えられている石塔がありますが、斜めに大きくひび割れしており、南無阿弥陀佛の文字が辛うじて読む事が出来るそうです。
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 如意輪観音菩薩像です。
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 光秀誕生の地を望める見晴台です。
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 明知遠山氏累代の墓〔恵那市指定史跡〕です。左大臣藤原魚名(721〜753)の子孫とされる加藤景廉(カトウカゲカド)が源頼朝から、現在の岐阜県恵那市・中津川市・瑞浪市の一部である遠山荘地頭職(ジトウシキ)を与えられますが、その子孫は遠山氏を称しました。岩村城を本拠地として遠山七頭と呼ばれる七つの家が栄えましたが、その一つが明知城に拠る明知遠山氏です。
 天正2(1574)年に武田勝頼が東濃へ侵攻すると明知城は陥落、城主遠山友治は戦死したため、弟の利景が家督を継ぎ、何度か旧領を回復しましたが、最終的に徳川家康に臣従して関東へ移り、先述の様に関ヶ原合戦に際して旧領回復に成功、6531石の交代寄合となって、明知城に入りました。
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 明知城は元和元(1615)年の一国一城令で廃城となり、二代目の遠山方景(トオヤマミチカゲ)は明知陣屋を政庁としましたが、その後、明治2(1869)年の版籍奉還に至るまで代々当地を治めました。途中で分家に所領を分知したため、最終的な所領は5401石でした。この墓地には利景以後の歴代11人が眠っています。なお、江戸町奉行として知られる旗本遠山金四郎景元(1793〜1855)は分家の人物です。
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《続く》
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