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2026年08月06日00:14

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道東紀行07 根室の歴史

 今日は根室の歴史について述べたいと思います。
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 根室市域は、概(オオム)ね低平な隆起海食台地で、山岳や大きな河川はありません。市の中心部は透遠な高原の一部であるため地形の高低があり、街路は緩やかな坂道が目立ち、北東に紅煙岬が突出、その西方海面に弁天島(大黒島)が横たわり、自然の港門となって根室港を形取っています。
 市域の大部分が千島火山系摩周岳に由来する火山噴出物が堆積して形成された風積火山性土で、土性は一般に泥炭土を除き火山灰性土壌です。
 本州で弥生時代が始まった紀元前3世紀以後も北海道では縄文文化が継続し、続縄文(ゾクジョウモン)文化と呼ばれます。
 西暦4世紀になると樺太で鈴谷(ススヤ)文化が生まれ、5世紀には北海道のオホーツク海沿岸や千島列島にも拡大、オホーツク文化と呼ばれる事になります。一方、北海道中部・南部は続縄文文化から擦文(サツモン)文化への移行期に入り、7世紀には朝廷との接触が生まれました。即ち、斉明天皇4(658)年から三年間に亙って阿倍比羅夫(アベノヒラフ)が交戦した蝦夷(エミシ)が擦文文化人、粛慎(ミシハセ)がオホーツク文化人だと推定されているのです。弁天島にはオホーツク文化の貝塚等の遺跡が存在しています。
 その後、10世紀になるとオホーツク文化は樺太へ後退し、北海道の大半は擦文文化圏になります。一方、道東地域と南千島にはオホーツク文化と擦文文化が融合した独特のトビニタイ文化が生まれますが、13世紀頃には擦文文化に吸収されました。
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 文明14(1482)年、室町幕府第8代将軍足利義政が朝鮮国王成宗に使者を送った際、夷千島王遐叉(エゾチシマオウカシャ)の使者が同行、大蔵経(ダイゾウキョウ)を求めたが拒否されたとの記録が『成宗実録』にありますが、これは蝦夷管領(エゾカンレイ)安東氏の事だとの説が有力です。
 16世紀当時の根室地域にはノサップに有力な部族集団が存在していた模様です。
 寛永20(1643)年初頭、オランダ領東インド総督アントニオ=ヴァン=ディーメンは、明帝國北方にあると信じられていたカタイヤ(契丹)王国、及び日本の東方沖にあるとされた金銀島捜索のために第2回太平洋探検隊を編成、司令官にオランダ東インド会社のマールテン=ヘリッツゾーン=デ=フリース(Maarten Gerritszoon de Vries)を任命しました。フリースはカストリクム号を旗艦とし、僚船ブレスケンス号と共に同年2月、ジャワ島のバタヴィアを出航しますが、5月に房総半島沖で暴風雨に遭遇、ブレスケンス号を見失しなってしまいます。しかし、カストリクム号は単独で太平洋を北上し、樺太東方沖の北緯48度54分まで達しました。その後、千島列島ではアイヌ人と交流し、択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島を発見、それぞれスターテンラント(オランダ国の土地)とコンパニースラント(オランダ東インド会社の土地)と命名して領有宣言をしています。
 同年8月15日、カストリクム号は蝦夷地の厚岸(アッケシ)に寄港し、9月2日までの18日間の滞在記録がオランダ国立総合公文書館に保管されています。記録にはノイアサックと名乗るいうエカシ(長老)の下で暮らすアイヌの生活と牡蠣(カキ)に代表される豊かな山海の幸に恵まれた厚岸の自然が記されています。フリースは厚岸湾内等を測量し、和人の交易船にも遭遇、松前藩主手舟上乗役小山五兵衛に出会っています。また、フリースは根室付近も訪れ、落石岬をマンスホーフト(人頭)岬と命名して世界に紹介しました。
 フリースは、奥州・蝦夷地・千島列島・樺太にかけての沿岸の実測地図を制作していますが、濃霧のために宗谷方面についての探索を断念したため宗谷海峡を発見出来ず、蝦夷地と樺太を同一の島と見誤っています。
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 17世紀中葉当時、松前藩の主収入源だった鰊は不漁になっており、アイヌ人の捕獲する鮭を米と交換するため、和人による蝦夷地への出稼ぎが広まっていましたが、米と鮭の交換レートは和人側が極度に有利になっていたため、アイヌ側の不満が増大する事となっていました。
 寛文9(1669)年6月、松前藩配下の和人の横暴に憤激したアイヌ人達がシャクシャインの乱を起こすと、クスリ(釧路)・厚岸・ノサップ等の道東アイヌもこれに呼応、同年10月にシャクシャインが殺されて乱の主力が壊滅した後も、道東地域では徹底抗戦が続きました。
 16〜18世紀には根室半島に多数のアイヌ人のチャシ(城砦)が築かれましたが、これはシャクシャインの乱に関連する物が多いと推定されています。北海道内には約700のチャシが確認されていますが、根室半島には約30ものチャシが集中、うち24ヶ所が国指定史跡になっています。
 寛文11(1671)年、松前藩兵が白老(シラオイ)に出兵した際、クスリ・厚岸・ノサップのアイヌ集団479人が船17隻で松前藩の陣営に赴き、降伏・服従の手続きを行いました。これにより、道東地域の組織的な抵抗は完全に終息、降伏の条件として、道東アイヌの集団は松前藩に絶対服従を誓わされただけでなく、戦いの償(ツグナ)いとして大量の刀剣・弓矢等を没収されました。これにより、道東アイヌ民族は自衛や抵抗のための武力を完全に失う事になったのです。
 これにより松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化され、従来黙認されていたアイヌ人による和人地・本州への交易は厳禁されました。
 正徳5(1715)年に松前藩は7代将軍徳川家継に対し、樺太・千島列島のみならずカムチャツカ半島をも自領と報告していますが、松前藩は既に宝永4(1707)年にカムチャツカがロマノフ朝ロシア帝国の支配下に入っていた事を知らなかった模様です。
 18世紀前半から、松前藩の家臣が交易権を商人に与えて運上金を得る場所請負制が広まり、18世紀後半には藩主直営地も場所請負となって、請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させました。松前藩の経済業務も請負商人に委託される事が増えたため、松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られてしまい、商人の経営によって、鰊・鮭・昆布等の北方の海産物の生産が大きく拡大、それ以前からある熊皮・鷹等の希少特産物を圧する様になりました。
 一方、カムチャツカを支配下に収めたロシア帝国は千島列島を南下してアイヌ人と接触し、元文4(1739)年には安房・紀州沖まで探検船を南下させたため、幕府はオランダを通じてロシアの極東進出を知る事となりました。安永7(1778)年には厚岸(アッケシ)にロシア船が来航して日本との通交を求めましたが、第8代松前藩主松前道広はロシアの要求を拒否して、幕府に秘密にしていました。当時、漁場の拡大に伴い、和人は千島列島を含む東蝦夷地にも入り込んでいましたが、その地のアイヌは自立的で、藩の支配は強くありませんでした。
 10代将軍徳川家治は、天明5(1785)年から最上徳内等を千島列島に派遣してロシア問題の調査を行い、幕府は千島列島北部が既にロシアの支配下に入っている事を把握、これを松前藩が隠蔽していた事も露見しました。しかも、この頃、西蝦夷地でも東蝦夷地でも和人商人によるアイヌ使役が次第に過酷になっており、請負商人によるアイヌ首長毒殺に対して、東蝦夷地では寛政元(1789)年にクナシリ・メナシの蜂起が起こりました。
 これはクナシリ場所請負人の飛騨屋による横暴に反発した国後島アイヌの蜂起にネモロ場所メナシのアイヌが呼応した叛乱で、和人74人が殺害されましたが、松前藩兵によって鎮圧され、首謀者37人が松前藩運上所のあったノッカマップ(現;根室市牧の内)で処刑されました。
 この結果、ノッカマップはアイヌ人から呪われた地として忌避される様になったため、寛政2(1790)年に松前藩は運上所を根室へ移しました。当時、根室は「子モロ」「根諸」等と表記されており、地名の語源は河口に流木が寄り集まる小川の意味との説が有力ですが、アイヌ語のニムオロ(木の繁るところ)に由来するとの説もあります。
 寛政4(1792)年、ロシア女帝エカチェリーナ2世は、大黒屋光太夫等3名の漂流者を送還する名目でアダム=キリロヴィッチ=ラクスマン(Адам Кириллович Лаксман)陸軍中尉を日本へ派遣します。ラクスマン中尉の真の目的はイルクーツク総督イワン=ピールの通商要望の信書を手渡す事でした。
 同年9月24日にエカテリーナ号でオホーツクを出発したラクスマン中尉は、エカチェリーナ号で10月20日に根室へ到着、大黒島に接岸しました。根室駐在の松前藩士は驚愕して松前城に事態を急報、幕府老中首座松平定信へ報告が上がる事となったのです。
 定信は、ラクスマンが江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉を行う意思が強い事を知らされたましたが、漂流民は受け取るものの、ピール総督の信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎に廻航させる事を指示、そのための宣諭使として目付の石川忠房・村上大学等の派遣を決定しました。
 定信は併せて使節を丁寧に処遇せよとの命令を松前藩に出しており、冬が近づいたため、根室に派遣された松前藩士はラクスマン中尉が冬営するための建物建設に協力し、共に越冬しています。この際、ラクスマン中尉は蒸し風呂を作り、凍った海でスケートをしたとされており、これが日本に於けるサウナとアイススケートの始まりになります。
 石川忠房は寛政5(1793)年3月に松前へ到着、ラクスマン中尉一行が陸路で松前に来る事を要求しましたが、ラクスマン中尉が陸路を拒否したので、日本側の貞祥丸が同行して砂原まで船で行く事となりました。しかしエカチェリーナ号は濃霧で貞祥丸と逸(ハグ)れ、単独で6月8日に箱館へ入港、ラクスマン一行はそこから陸路松前へ向かい、6月20日に松前へ到着しています。
 忠房は長崎以外では国書を受理出来ないため退去する様に伝えると共に、光太夫等を引き取り、宣諭使両名の署名がある「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と題する長崎への入港許可証(信牌)を交付しました。ラクスマン中尉は6月30日に松前を去り、7月16日に箱館を出港、長崎へは向かわずオホーツクに帰港しています。
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 ロシア帝国の極東進出を憂慮した11代将軍徳川家斉は寛政11(1799)年に東蝦夷地を天領とし、根室運上所は根室会所と改められました。根室・国後・択捉には幕命によって南部盛岡藩兵が駐屯する事になります。
 寛政12(1800)年、淡路国出身の廻船業者高田屋嘉兵衛が択捉島への航路を拓いて成功しますが、嘉兵衛は文化3(1806)年に根室へ金刀比羅神社を創建、根室港の大黒島にも弁財天を祭りました。このため、大黒島は以後弁天島と呼ばれる事となっのです。
 幕府は文化4(1807)年には蝦夷地全域を天領としますが、1812年のフランス皇帝ナポレオン1世によるモスクワ遠征以後、ロシア帝国は西方進出に力を入れ、極東地域での圧力が弱まったため、文政4(1821)年に蝦夷地は松前藩領に復ました。
 ところが、日露和親条約調印翌年の安政2(1855)年2月に幕府老中首座阿部正弘は、再び蝦夷地を天領とし、同年3月27日にシラオイ・シレトコ(知床)及び国後島・択捉島の警備を任された仙台藩が根室に出張陣屋を築いて警固を行う事となりました。
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 箱館戦争終了後の明治2(1869)年8月、北海道11ヶ国86郡が制定され、今の根室市に相当する地域は根室国とされて花咲郡と根室郡が設置、同年10月に開拓使の根室出張所が設けられました。この際、開拓使官僚達と共に移住民130人も来住しています。
 明治3(1870)年6月、根室国は東京府へ編入されましたが、同年10月に旧へ服しています。明治4(1871)年5月に根室国は根室出張開拓支庁と改称され北海道東部の行政を統括する役目を担う事となりました。更に明治5(1872)年9月には根室支庁と改称され、明治8(1875)年の樺太千島交換条約で日本領となった北千島も管轄する事となりました。
 明治初めの根室は北海道東部最大の町でしたが、周辺海域で働く漁業労働者の一時的な滞在地だったため、人口の季節変動が大きいのが特徴でした。明治10(1877)年に漁場持制が廃止され、少数商人の支配が無くなると、根室に永住する人も増え、商店が並ぶ様になりました。
 明治15(1882)年、北海道が札幌・函館・根室の三県に分割されると、根室県の県庁所在地となり、根室梅ヶ枝町に県庁舎が置かれました。県令は薩摩藩出身の湯地定基(ユチサダモト)で、管轄地域は根室国・釧路国・千島国の全域と北見国の紋別・常呂(トコロ)・網走・斜里の4郡です。
 明治19(1886)年1月に北海道庁が設置されると根室県は廃止され、同年12月まで旧根室県を管轄する根室支庁が置かれましたが、明治30(1897)年に根室支庁の管轄エリアは大幅に縮小されています。
 明治22(1889)年に市町村制が開始された際、北海道には適用されませんでしたが、明治33(1900)年に北海道独特の一級・二級町村制が施行される事となり、財政負担が困難な町村は権限が大幅に制限された二級町村とされる事となりました。根室町は勿論、一級町となっています。
 大正5(1916)年1月16日、落石岬に設置された無線局とロシア帝国領カムチャツカ半島のペトロパブロフスクカムチャツキーの無線局間に於いて無線電信が開通しました。
 昭和6(1931)年8月24日、1927年に大西洋単独無着陸飛行を達成していたアメリカのチャールズ=リンドバーグ夫妻が北太平洋を水上機で横断し根室を訪れています。
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 昭和11(1936)年9月28日には昭和天皇の行幸が行われ、根室北斗尋常高等小学校に奉迎場が設けられました。
 昭和初期の根室町は国内有数の水産都市として発展しましたが、大東亜戦争末期の昭和20(1945)年7月14日には米機動部隊艦載機による大規模な空襲を受けて死者369人を出し、市内の大半が焼失する壊滅的被害を受けています。
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 戦後、目前に浮かぶ歯舞群島がソ連軍に占領される異常事態の中、根室は復興を果たしますが、昭和29(1954)年には暴風雨のため漁船38隻が遭難、323人もの犠牲者が出る大惨事が起きています。
 昭和32(1957)年には根室郡和田村を合併して市制を施行、これに伴って根室郡は消滅しました。昭和34(1959)年に花咲郡歯舞村を編入し、これに伴って花咲郡も消滅しています。
 戦後の根室はソ連やアメリカ合衆国アラスカ州沿岸の北洋漁業の根拠地として繁栄していましたが、昭和57(1982)年に国連海洋法条約が調印され、平成4(1992)年に発効すると、200海里の排他的経済水域が設定されて北洋漁業は壊滅的打撃を受けてしまい、過疎化が進行する事となって行きました。
 目前にソ連→ロシア占領地域が広がる根室には空港を設けにくかった事もあり、令和7(2025)年5月には空港がある標津郡中標津町の人口が初めて根室市を上回り、根室市は根室振興局(2010年に根室支庁が改名)内最多人口自治体では無くなってしまったのです。
 令和8(2026)年4月16日には、国内唯一のブランケット型泥炭地である歯舞湿原〔根室市指定天然記念物〕で火災が発生、約400haが焼失してしまいました。
 現在の根室市の面積は502.65㎢、人口は21590人です。
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《続く》
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