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2026年07月29日01:00

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ドイツ第三帝國軍人シリーズ53 Hans Otto Wilhelm Eugen Krebs陸軍歩兵大将

 ハンス=オットー=ヴィルヘルム=オイゲン=クレープスは、ドイツ陸軍参謀本部最後のトップを務めた人物です。
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 クレープスは、1898年3月4日、ブラウンシュヴァイク公国ヘルムシュテットで、学校の校長オットー=グスタフ=フーゴ=クレブースと妻アデーレ(旧姓グレイザー)の長男として生まれました。兄弟には1歳下の妹がいます。15歳になるまで、一家はヘルムシュテットに住み、クレーブス少年はそこでギムナジウム=ユリアヌムに通いました。1913年、一家はプロイセン王国領ゴスラーに引っ越しましたが、成績優秀だったクレープス少年は飛び級してラッツギムナジウムに転校しています。
 1914年8月1日、ドイツ第二帝国が第一次世界大戦に参戦すると、16歳のクレープス少年は同年9月3日にプロイセン王国陸軍へ志願、ゴスラーのハノーファー猟兵大隊第10大隊に二等兵として入隊しました。
 同年11月27日にクレープス二等兵はオストフリースラントの第78歩兵連隊「ブラウンシュヴァイク公フリードリヒ・ヴィルヘルム」に転属となりましたが、ペーパーテスト成績が優秀だったため、同年12月11日に一等兵待遇士官候補生の資格を与えられ、1915年1月5日には伍長待遇士官候補生となります。
 同年3月19日、クレープス候補生は第19師団に所属した第78歩兵連隊本隊のいる西部戦線に派遣され、5月22日に軍曹待遇士官候補生に昇進、6月18日には少尉任官を果たしています。1915年8月22日には第二級鉄十字章を受章しました。
 クレープス少尉は1916年7月〜10月のソンム会戦に参加、1917年2月6日に第一級鉄十字章を受章しています。同年9月からはフランス軍のヴェルダン要塞前面の防御陣地に駐屯しました。なお、第78歩兵連隊には戦時小説『西部戦線異状なし』の著者エーリヒ=マリア=レマルク二等兵も所属していました。
 第78歩兵連隊は1918年3月に開始されたドイツ軍春季大攻勢「ミヒャエル作戦」の中核地域に展開し、その後の攻勢と撤退の間、北フランスとフランドルに留まりました。
 ヴェルサイユ条約調印後、クレープス少尉はヴァイマール共和国国防軍に留まる事が出来、ブラウンシュヴァイク州の第17連隊第1大隊に所属、1920年4月29日にイルゼ=ヴィットコップ嬢と結婚して1921年に長女アンネ=マリー、1925年に次女リーゼロッテが生まれています。
 1925年7月31日、クレープス少尉は中尉に昇進、国防軍兵務局で参謀教育を受けた後、1927年にはプロイセン州ミンデンの第6プロイセン工兵大隊で勤務し、1928年にはブラウンシュヴァイク州へ戻って第17歩兵連隊に配属されました。
 クレープス中尉は、1930年にベルリンの国防省本省に栄転、そこでロシア語を習得しました。1931年10月1日には大尉に昇進して外軍部に配属され、同部を代表してラパッロ条約に基くソヴィエト赤軍との軍事訓練に参加、ソ連極東地域への視察旅行も行っています。
 1932年にベルリンを訪問したソ連軍代表団の記録によると、クレープス大尉は「狂信的な共産主義者と不誠実なユダヤ人」を嫌悪していたとされています。
  1933年1月にヒトラー内閣が成立すると、クレープス大尉は翌年までモスクワ駐在ドイツ大使館付武官補佐官を務め、赤軍に対する諜報活動に従事しました。
 帰国後は1935年までオストプロイセンのグンビンネン歩兵連隊で中隊長を務め、その後、第24歩兵師団第一参謀将校に転属、1936年1月1日に少佐昇進を果たしています。
 1937年10月、クレープス少佐は、訓練及び規則を管轄する陸軍陸軍参謀本部第11部の初代部長としてベルリンへ戻り、1939年2月1日に中佐へ昇進しました。
 1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発すると、クレープス中佐は一時的に陸軍最高司令部付になり、同年12月にオイゲン=リッター=フォン=ショーベルト歩兵大将率いる第7軍団の参謀長に任命されました。1940年5月10日に西方戦役が開始されると。第7軍団はA軍集団(司令官;ゲルト=フォン=ルントシュテット上級大将)麾下の第16軍(司令官;エルンスト=ブッシュ歩兵大将)に属してアルデンヌ高原突破作戦に参加、フランス軍撃滅に活躍しました。
 1940年10月1日、クレープス中佐は大佐に昇進すると同時に、モスクワ駐在武官エルンスト=アウグスト=ケストリング騎兵大将の第一補佐官に任命され、モスクワに赴任しました。クレープス大佐はは1941年5月1日のメーデー式典に参加した直後に帰国しますが、当時、独ソ関係の行方に不安を抱いていたソ連の独裁者ヨセフ=スターリン書記長は自らモスクワ駅までクレープス大佐を見送り、「独ソ間の友好関係維持を総統に伝言して欲しい」と頼んでいます。しかし、同年6月22日にドイツ軍はソ連に侵攻するバルバロッサ作戦を発動したのでした。
 帰国したクレープス大佐は陸軍総司令部勤務を経て、1942年1月15日に中央軍集団所属の第9軍(司令官;ヴァルター=モーデル装甲兵大将)の参謀長に任命され、ソ連軍の冬季攻勢を凌いだ功績で1月26日にドイツ十字金章を受章、2月1日には少将昇進を果たしました。
 続いて1943年3月に中央軍集団(司令官;ギュンター=フォン=クルーゲ元帥)の参謀長となり、4月1日に中将に昇進しています。同年7〜8月のクルスク大戦車戦でも重要な役割を果たし、その精勤ぶりは「確固たる国家社会主義の信念の持ち主」としての評価を高めました。東部戦線が崩壊する中、クレープス中将は1944年3月26日には騎士十字章を授与され、8月1日には歩兵大将に昇進しています。
 クレープス大将は、1944年9月に西方総軍(総司令官;ゲルト=フォン=ルントシュテット元帥)麾下のB軍集団(司令官;ヴァルター=モーデル元帥)参謀長に転任し、同年末のアルデンヌ大反攻の作戦立案に当たりました。
 左からモーデル元帥、ルントシュテット元帥、クレープス大将です。
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 アルデンヌ大反攻の失敗後、クレープス大将は1945年2月20日に柏葉騎士十字章を受章すると同時に陸軍参謀次長に任命され、参謀総長ハインツ=グデーリアン上級大将《https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1976449405&owner_id=250900》を補佐する事となりました。
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 しかし、既に戦局は絶望的で、3月28日に総統と対立してグデーリアン参謀総長は解任、翌日、クレープス大将が参謀総長代行に任命されたのです。以降、クレープス大将は総統地下壕からベルリン市街戦の指揮を執り、4月28日にはシュッドハノーファー・ブラウンシュヴァイク大管区フュルステンベルクに移っていた国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム=カイテル陸軍元帥《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1888411705&owner_id=250900》に連絡を取って、「48時間以内に救援軍が到着しなければ、ベルリンは陥落する」と報告しています。それに対してカイテル元帥は「第9軍(司令官;テオドール=ブッセ歩兵大将)と第12軍(司令官;ヴァルター=ヴェンク装甲兵大将)が救援に向かう」と返答、両軍は西部と南部から進軍を開始し、ルードルフ=ホルステ中将麾下の第41装甲軍団も攻撃に参加する手筈になっていました。
 同日、ハインリヒ=ヒムラーSS国家長官の裏切りを知った総統によってクレーブス大将は臨時軍事法廷の判事に任命されました。他のメンバーは、総統副官長兼陸軍人事局長ヴィルヘルム=ブルクドルフ歩兵大将・親衛隊国家保安局長ヨハン=ラッテンフーバーSS中将・ベルリン官庁地区防衛司令官ヴィルヘルム=モーンケSS少将です。クレ−ブス大将達は、総統地下壕に於けるヒムラーの代理人だったヘルマン=フェーゲラインSS中将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1922612291&owner_id=250900》を裁こうとしましたが、フェーゲラインSS中将は泥酔状態で立ち上がる事も出来ない状態だったため、裁判を開く事が無意味だと主張したモーンケSS少将の意見を受けて裁判を経ずに処刑が決定、フェーゲラインSS中将は国家保安局刑事部長ペーター=ヘーグルSS中佐に引き渡されて銃殺に処されました。
 4月29日、クレープス大将は、宣伝大臣ヨーゼフ=ゲッベルス博士・国務大臣兼ナチス党官房長マルティン=ボルマンSS大将・ブルクドルフ大将と共に、自決するヒトラーの遺言書に証人として署名しました。その夜、クレープス大将はフュルステンベルクの国防軍最高司令部統帥局長アルフレート=ヨードル陸軍上級大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1903479752&owner_id=250900》に「即座に報告されたし。第一にヴェンク軍の所在位置。第二に攻撃開始時間。第三に第9軍の所在位置。第四に第9軍が突破する正確な場所。第五にホルステ軍団の所在位置」と無線連絡しています。翌30日早朝、ヨードル上級大将は「第一にヴェンク軍はシュヴィーロー湖の南で進撃停止。第二にベルリンへの進撃を続行出来ない。第三に第9軍は殆どが包囲されている。第四にホルステ軍団は守備で手一杯である」と返答しています。
 同日午後、ヒトラー総統はエーファ夫人と共に自殺、遺言書でゲッベルス博士が帝国宰相、ボルマンSS大将が党務担当大臣に就任しました。クレープス大将は、ゲッベルス帝国宰相・ボルマンSS大将の指示で、ソ連との和平交渉を任されましたが、これはモスクワ駐在の経験とロシア語の語学力を買われての措置でした。
 5月1日0200時、クレープス大将は、ベルリン防衛軍参謀長テオドール=フォン=ドゥフヴィング大佐と共に停戦交渉に向かい、0350時にテンペルホーフ空港に近いシューレンブルクリング2番地の住宅に設けられたソ連第8親衛軍司令官ワシーリー=チュイコフ大将の司令部を訪ねました。クレープス大将はソ連軍の高級将校たちの居並ぶ中、自分が停戦交渉の全権を委任されている事を告げ、ヒトラー総統が自決したために後継政府の準備に必要な停戦を要求するゲッベルス帝国宰相の書簡を読み上げ、新内閣の閣僚リストを手渡しました。チュイコフ大将はヒトラーの自殺に驚きましたが、「我々はヒトラーの死を既に知っている」とはったりをかました上で、上官のゲオルギー=ジューコフ元帥に電話してヒトラーの死を報告しました。報告を受けたスターリン書記長は単独講和を禁止する連合国間の合意事項を理由に停戦を拒否し、ドイツの無条件降伏のみを要求しました。
 クレープス大将はソ連側の許可を得て総統官邸のゲッベルス帝国宰相に電話し、ソ連側の回答を伝えましたが、ゲッベルスが無条件降伏を峻拒したために、12時間に亙るクレープス大将の交渉は無駄に終わりました。総統秘書だったトラウデル=ユンゲ嬢の証言によると、クレープス大将は「酷く疲れ果て消耗した様子で」総統地下壕に戻って来たとされます。
 総統地下壕に戻ったクレープス大将は、ボルマン大臣から交渉失敗の責任を追及されて罵倒されています。5月1日の午前中には総統地下壕から脱出する者が相次ぎましたが、クレープス大将はブルクドルフ大将と共に残留し、ゲッベルス夫妻が自殺した後、2130時頃にブルクドルフ大将と共に地下壕倉庫で自決しました。
 同日夜まで総統地下壕にいたローフス=ミシュSS曹長は、クレープス大将は拳銃自殺したと証言していますが、5月8日に検死したソ連側の剖検報告書ではクレープス大将は青酸カリで服毒死したとされています。
 クレーブス大将の死によって伝統あるドイツ参謀本部は物理的に消滅し、ドイツ陸軍の統帥権は国防軍最高司令部(OKW)に一元化される事となったのです。
 その後、クレープス大将の遺体は。ヒトラー夫妻・ゲッベルス一家・ブロンディ(総統の愛犬)の遺体と共にソ連軍により頻繁に埋葬地を変更されました。最終的に埋葬されたのは1946年2月21日の事で、スターリン直属の防諜部隊スメルシ(СМЕРШ)によってザクセンアンハルト州マクデブルクに葬られました。
 しかし、1970年4月4日にKGB議長ユーリ=アンドロポフ上級大将の指示によって掘り出され、ザクセンアンハルト州シェーネベックのマクデブルガー通りにある 第10親衛戦車師団第248ソ連親衛自動車化狙撃連隊の兵舎の敷地に移送されました。遺体は火葬されてザクセンアンハルト州ビーデリッツに移送され、そこで全ての遺物が処分されました。遺体が入っていた木箱は焼却されてエルベ川の支流に捨てられています。
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