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2026年07月28日21:08

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淡谷のり子

スポットライト【時代を生きた先祖たち】

【淡谷のり子|軍歌を歌わず、慰問先で禁じられたブルースを歌った「ブルースの女王」】

戦時中、軍歌を歌わず、もんぺもはかず、ドレスと化粧をやめなかった歌手がいた。
軍や警察から注意を受け、始末書を書かされても、その姿を変えなかったという。
彼女にとって、ドレスと化粧は贅沢ではない。
歌手として舞台に立つための「戦闘服」だった。

彼女が生まれたのは、一九〇七年の青森市。
生家は呉服商を営んでいたが、彼女が三歳だった一九一〇年の青森大火で店を焼失。
その後、家運は次第に傾いていった。
一九二三年、母と妹とともに上京。東洋音楽学校では、ピアノ科から声楽科へと進み、モデルの仕事で学費と生活費を補いながら学び続けた。
一九二九年、声楽科を首席で卒業。新人演奏会では、「十年に一度のソプラノ」と評された。
しかし、クラシックだけでは母と妹との暮らしを支えられなかった。

一九三〇年のインタビューで、彼女は流行歌へ進んだ理由を、こう語っている。
「親子三人の生活を立てて行かねばならない」
レコード歌手となった彼女は、シャンソンやラテンなども日本語で歌った。
そして一九三七年、「別れのブルース」が大ヒット。
翌年には「雨のブルース」も世に送り出し、やがて「ブルースの女王」と呼ばれるようになる。
家の没落と苦学を越え、ようやく手にした自分の歌。

だが戦争の時代は、その歌までも奪おうとした。
「別れのブルース」や「雨のブルース」は、時局にふさわしくないとして、事実上、歌うことを強く制限されるようになった。
歌手には軍国調の歌が求められ、服装にも統制が及んでいく。
華やかなドレスと化粧を続ける彼女は、当局から繰り返し注意を受けた。
それでも、軍歌を歌わなかった。
もんぺに着替えず、舞台ではドレスをまとい続けた。

さらに軍の慰問にも、報酬を受け取らない形で参加した。
無料奉仕なら、何を歌ってもよいではないか。
彼女は、そうした信念で慰問を続けたと伝えられている。
慰問先で兵士たちから求められたのは、歌うことを禁じられていた「別れのブルース」だった。
彼女は罰を覚悟し、その要望に応えた。
ドレス姿のまま、兵士たちの前でブルースを歌ったのである。
国が禁じても、その歌を聴きたいと願う人がいた。

彼女が守ったものは、華やかな衣装だけではない。
没落と苦学の末に築き上げた、歌手としての自分そのものだったのかもしれない。
終戦の年、彼女はレコード会社から契約を解除され、空襲で自宅も失った。
それでも、歌うことをやめなかった。
戦後は別のレコード会社から再出発し、「嘆きのブルース」「君忘れじのブルース」などを歌い、再び人々の前に立った。

八十歳になると、全国八十か所を巡る公演を行う。
八十五歳でも、新しい歌を発表した。
時代が変わっても、年齢を重ねても、歌手として立つ姿を変えなかった一人の女性。
一九〇七年から一九九九年まで、昭和から平成へと歌い続けた彼女の名は、淡谷のり子。
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