今日は、曇りのち雨の一日。
いただいたショートケーキに、自分でイチゴをマシマシにしたのに
シロップしてないからかイチゴの味に統一感がなく不味くしてしまい、ひどくガッカリした一日なのです。
どうして、人を殺してはいけないの?
昭和の時代、そんな質問を小学生にさせて困惑する大人を観察するような番組がありました。
なぜ困惑するのかといいますと、子供は始めから納得することを禁じられており
大人の回答に対して(それは)「どうして?」を繰り返すよう指示されているからなんですね。
つまり「法律で禁じられているから。」とか、安易に言おうもんなら
必殺の「どうして?」砲が発せられるわけなのです。
では!僕が問われたら、どう答えるでしょうか。ふと、考えてみました。
はい。あなたは殺してはいけません。
なぜなら、無知で無力で無能なあなたは
彼(女)を殺すことはできても、生き返らせることができないからです。
あなたが「社会」に生きる人間である以上、誰ひとりの例外なく
何人も、自分の行動の結果「自己の範疇」を越えて与えた影響に対していつでも原状回復の責任を負います。
もちろん、その請求自体が発生しない、というケースもおおいにありえますが
当事(者)からの請求があれば、ただちに原状回復の実現につとめ、
しかるのちに謝罪が可能となり その謝罪が相手に受け入れられるに至って、やっと赦免される、という過程をたどるはずです。
ですが、人を殺したら謝罪の前段階たる、土台たる、原状回復が不可能となります。
これは謝罪をも不可能にすることと同義であります。
みなさんは「借りパク」って、ご存じですか?
これは、例えばファミコンのカセットを友達から借りて、そのまま返さずにいる状態のことです。
つまり、貸し借りという「契約」だったのに、返さず盗んでしまった、ということなのです。
そこに悪意が存在している場合も、そうでない場合もあると思われるんですが、
「被害者」にとってみれば、その悪意の有無が何らかの意味や益を生み出すわけもなく
ただただ、加害者側の言い訳や免罪符になる以上の意義は持ち得ません。
被害者からすればファミコンカセットが、あるいは同等品が戻ってくれなきゃ話にならないわけで
それを返したのち「返すの、遅くなってごめんね!」という謝罪の段階に入れるのです。
もちろん「謝罪ができる」という最低限の資格が出来たというだけで
相手が許してくれるかどうかを保証するものではないことは、言うまでもありません。
黒人運動家たるマルコムXは永きにわたる黒人差別を「ナイフで刺した」と例えて、
差別はなくなった、すなわちナイフは抜いた、と白人たちは声高に言うが
抜いたと認めるにせよ、ナイフを抜いたその傷口からは、今も血が流れ続けている
そんな批判を展開したほどなのです。
なぜ唐突に借りパクなどという例を挙げたかと申しますと、構図として相似形だからです。
どちらも被害者は、こう言うのです。「○○を返して!」と。
この○○がゲームタイトルなのか、被害者の名前なのか、
殺す、というとその人の未来や将来を奪うという罪に注目されがちです。
もちろん、比較不可能な重大な罪ですから、それもむべなるかな、なんですけど
その前に忘れてはいけないのは、多くの場合死ぬということは、
「痛すぎ」たり、「苦しすぎ」たりして、死に至るわけです。
殺す、殺人という残虐行為においては、これにほとんど例外はないでしょう。
つまり、未来を奪ったという大罪の以前に耐え難い苦痛を与えたことへの謝罪がまずあってしかるべき、だと僕は考えます。
なのに、愚かにも醜くも、あなたは被害者を生き返らせるという原状回復すら実現できず
したがって、謝罪のスタートラインにすら立てないのです。
こう書くと、最初の番組のように「どうして(殺したら)謝罪しなきゃいけないの?」と、
鬼の首でも取ったかのように質問してくる子供 笑 が頭に浮かぶんですけど
それには、明確にこう答えます。
人間は(みんなで生きている)社会的な生き物だからです、と。
でも、頭の悪いあなたに、この答えを「どうして人を殺してはいけないの?」のときに返しても
上記のような「因果関係」を「自分では」理解できないでしょう?と、テレビ局に頼まれただけの無辜の小学生を相手に
ビーフ(ヒップホップ界において相手を批判したりけなしたりすること)まで、し始める 笑 ザ・老害こと、炊き込みご飯なのです。
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