■山中恒さん死去、94歳=児童文学作家、「ボクラ少国民」
(時事通信社 - 03月19日 15:31)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=8714263
『ボクラ少国民』や『転校生』などが有名です。
『ボクラ少国民』は、戦時中のことを自分に都合よく解釈しようとする風潮の批判として大切な記録です。大林宜彦のフィルム『転校生』(というより『転校生』は映画の題名であり。山中さんの原作は『おれがあいつであいつがおれで』という名です)に惹かれる人も多いと思います。
山中さんは、児童文学作家という自己認識をしませんでした。
それには、よく指摘されている、小川未明・浜田廣介・坪田譲治ら、当時の児童文学の代表者たちの戦争協力への反発という問題もありましたが、
(ぼくは山中恒研究者ではありません。今ここで典拠を示すことはできませんが)まず間違いなく、「児童文学」というくくりに懐疑的だったという理由があるでしょう。
たとえば、ファンタジーの面白さは、児童だけのものではありません。大人のものでもあります。よく、「子どもの純真な心…」云々といいますが、ファンタジーを求めてそこに浸りたいという心は、大人だからこそ生まれるとも言えます。騎士団のマドンナは、性的なものが未発達な子どもには完全には理解されません。
『転校生』も、成熟した大人だからこそ、あの何とも言えない危うさやリリックな情緒を中学生以上に感じられるということがあります。
ところが、普通の児童文学は、大人が子どものために作るものであり、そこに、子どもにわからせるという通俗化が働きます。だからこそ、『赤い蝋燭と人魚』『ごんぎつね』のような、なんとも言えない後味の悪さにつながっていると思います。
感動ポルノ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E5%8B%95%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%8E
という言葉があります。同じことです。
むしろ、意味つけるというところから、もろもろの苦しみが始まると思います。『ごんきつね』は、鉄砲の事故でなくなった。そう正確にとらえてこそ、厭世などの苦悩から救われます。
数日前、昼寝をしていたところを、宣教師に起こされました。宣教師の布教が「キリスト教への帰依」という余計なおせっかいだとしたら、普通の児童文学は、同情しなさい、感動しなさいを布教している、やはり、余計なおせっかいです。
それに、人に布教する道徳は、聞き飽きた単純なもの、定型的なものです。そういう話を前にしては、感動したふりをするしかありません。
人間とはもっと自由なものです。今、人にすすめられたかわいそうな本に同情しなくとも、その人は無慈悲とは言えません。
ぼくが、山中恒さんの作品で感動したのは、
『よぼろの笛』という単行本(短篇集)です。
場面の切り方や空間の描き方が素晴らしい。
お涙ちょうだいなどの、後味の悪さがありませんし、善悪が暗示されてもいません。そもそも、「人間はかくあるべし」という浅い教条がありません。
名前を失念しましたが、子どものグループが自動車のフロントガラスを割り、賠償を迫られるというモチーフの小説が印象的。
ポチろうとおもいましたが、二万円を超えています。さすがです。
ご冥福を心からお祈りいたします。
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