mixiユーザー(id:12410478)

2025年06月01日09:28

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課題の添削が、おもしろい。

複数の大学で「私の通学路」という課題を出しています。

メールで送ってもらい、添削します。
面白いのは、その年によって、特徴があるということです。
大学が違っても、特徴は同じです。ここが不思議です。たった一年ですから、小中学のカリキュラムが変わったなどの影響はないでしょう。
年干でしょうか。現役生が多いから、丁亥年生まれが多いですが、それとどのように関連するのかわかりません。

今年の特徴は、

1 重複が多い
「電車は満員です。混んでて座れないほど人で一杯です」など。

2 構文の破綻が少ない。
「私は、コロナが問題になっているときに、政府の不徹底な対応が流行に拍車をかけました」のようなものがほとんどない。

3 副詞、連体詞、感情を表す言葉を言葉を切った方がいい答案が多かった。
「大変」「とても」「巨大な」「うれしい」「悲しい」「美しい」など。

要するにハードボイルドになれということですが、
見ているものは、正しい。見方は鋭いということです。無駄なものを見ていません。だから、描写が同じところで回って、1や3の現象が起きるのでしょうね。

次の小林秀雄(この人は、本来、大嫌いです。二番煎じ三番煎じのようなことを得々と語っているからです)の言葉を思い出します。

志賀直哉の名文について、

【 慧眼の出来る事はせいぜい私の虚言を見抜く位が関の山である。

私に恐ろしいのは決して見ようとはしないで見ている眼である。

物を見るのに、どんな角度から眺めるかという事を必要としない眼、吾々がその眼の視点の自由度を定める事が出来ない態 (てい)の眼である。志賀氏の全作の底に光る眼はそういう眼なのである。

恐らく氏にとっては、見ようともしない処を、覚えようともしないでまざまざと覚えていたに過ぎない。これは驚くべき事であるが、一層重要な事は、氏の眼が見ようとしないで見ているばかりでなく、見ようとすれば無駄なものを見てしまうという事を心得ているという事だ。氏の視点の自由度は、氏の資質という一自然によってあやまつ事なく定められるのだ。氏にとって対象は、表現されるために氏の意識によって改変されるべきもの    として現れるのではない。氏の眺める諸風景が表現そのものなのである。 】
(『作家の顔』新潮文庫、「志賀直哉論」)」


もうこの境地の入り口まで来ているということでしょうか。素晴らしい。

ただし、もう少し考えたいと思います。

たとえば、旧共通一次と平成終わりのセンター試験を比べると、後者の方が難しいです。しかし、「年々、学生がアフォになっていく…」というのが、大方の感想です。
一筋縄ではいきません。 

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