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2024年03月14日09:37

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やっちゃん回想録8−4 桐朋高校答辞の話 特選

桐朋高等学校、78期卒業生の答辞に賛辞やまず 「只者ではない」「感動のあまり泣いて10回読み直した」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=7785890

英語に「長文」というものがあります。
「文」はこの場合、ピリオドからピリオドのこと(センテンス)ではありません。センテンスの集積です。
大学入試で、長文と言われる、慶応や外語大の問題は、長文ではありません。超々ultra奇形的な短文の一部のそのまた切れっ端(パシ)です。長文というのは、五センチくらいの厚みのペーパーバックのことです。英語が苦手な人は、苦手だからこそ赤本で4ページもあれば、「長文」だと思いたくなるでしょうね。

同様に、この答辞を長いと感じる人は、ご自分の基準で長いと感じているだけだと思います。いろいろな理由がありますが、
一つは、部外者であって、当事者の気持ちを想像していないからです。

どうも、一般常識や社会通念についての意識が輪切りにされ、自分のものになっていない経験則を認めない…という風潮が蔓延しているかのようです。

この答辞で感心したのは、桐朋の生徒が関心を持つ話がちりばめられていることです。
だから、続きを聞きたくなるということです。
たとえば、町内会で会長がスピーチをするとします。
「風光明媚な、文京の丘で…」などというスピーチだったら、長すぎてどうしようもないと思います。ところが、最近捕まった空き巣の話や、山田さんの家の近くに半日も止まっていた救急車の話をしたら、「もっと、聞かせろ。説明が短すぎる」という気持ちになるでしょう。そういう原理を使っています。
だから、在校生としてこの答辞を聞いた人は、決して長くて退屈だとは思わないでしょう。

また、
桐の朋。ですがけっして「これっきりのとも」ではないはずです。
数千里の翼を伸ばして校舎の外に尚も広く晴れ渡る大空を悠々と、颯爽と翔けていく我ら大鵬。

ここは、本歌取りのような技法が使われています。
元は、校歌です。しかも、佐藤春夫(秋刀魚の歌で著名な近代最高の詩人)作詞です。何と美しい校歌でしょうか。

【 
一 国立の丘にして 学校のよき窓は
老い松の枝越しに 富士ありて若人を
おほらかに教へ居る 天地に人な愧(は)ぢそと

二、 玲瓏(れいろう)と仰がるる 高根なる雪に似む
わが心俯して知る 武蔵野の春秋に
少年は老い易し 天地は永遠に新に

三、 好き友の寄り集ひ 多摩の岸玉攻き
志いや高く 名もゆかし桐の朋
鳳凰の雛の家 天地の真実琢み
  】

含意は真理の相対性です。
たとえば、武蔵野女子学院の女子生徒を多摩川の土手で押し倒す。三回目のデートだったからまだタイミング的に早く、彼女は泣きながら逃げてしまった…その晩彼女の親爺が、「痴漢、出てこい! よくも娘を女郎扱いしたな…」と木刀を持って家に押し掛けた、自分は、根性がないから押し入れの奥に布団をかぶって震えている…
でもいいじゃないか。天地に誓って恥じるようなことではない。いつも天地は新たになるものだし…
そういうことを述べている気がします。
この答辞の中にもそういう幅の広さが込められていると思います。

答辞を読む人は生徒会長などでしょう。
その生徒会長(的な人。本当に生徒会長かどうか知りません)を、悪い意味での中間管理職的な人(上にも下にも二枚舌を使って何とか生き残っている人)にしなかった教員側も偉いですね。

しかも、この答辞は、卒業生の名前を一字ずつ取って全て入れたとか…

これからの教育は、格差が問題です。
しかも偏差値的なことだけではなく、
桐朋のようないい環境が、閉じられたギルド的なものになってしまわないようにしなければならないと思いました。

現に中学入試を受けさせる親などは、東大何名云々ではなく、校風に着目しています。
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