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2020年03月19日10:04

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コロナばら撒き男性の、渇愛( bhavataṇhā)を考える。

■コロナ「ばらまく」男性死亡=感染後に飲食店、持病影響か―愛知
(時事通信社 - 03月18日 15:31)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=6013545

思うところを挙げます。

1 因果応報はない。

現象として、悪人が長生きしたり善人が若死にしたりします。
また、とんでもない人ですが、死んでいい気味だ、ザマア見ろというわけには行きません。罰としては重すぎます。
しかし、真相は、

2 末期肝ガン。死を悟っていた。

だからこそ、こんな無謀なことをしたということでしょう。

死とは何でしょうね。
私は、無だと思います。
前にも述べたことがありますが、全身麻酔で胆石を切ったことがあります。「アッ ダメだ」と思ったら、全てが消え、次の瞬間に目が覚めました。二時間麻酔がかかろうが、十億年だろうが変わらない、絶対の無。
無常といいます。あれの本当に恐ろしいところは、自分が、おととい見た悪夢のように、「なかったことになる」ということです。

かなしいものですが、
ただ、「無」をどう解釈するか。そこからが問題です。

年上の知人がいます。
その人は好色な人で、女子大生を愛人にして、あろうことかヌード写真を撮って、自室の机の中に閉まっています。「見せてやる」といわれましたが、丁重にお断りしました。余談ですが、そういうことがあるから、愛人業は、危険なものだと思いました。

さすがに、忠告したことがあります。
「人間、明日死なないとも限らないですよ。死んでから、お嬢さんが遺品を整理したらマズいですよ。『パパ、最低!』と思われたらどうしますか。」
そうしたら、
「オレが死んだら世界は終わりだ。だから、関係がない。」という言葉が返ってきました。

わかりますが、
写真は、本人が死んでも残りますし、そういう写真があることは、厳然たる事実です。本人が死んだら、恥ずかしいと思うことも、責められることもないというだけです。
それならば、悪いことをしてテレビで叩かれても、テレビを消せばいい…ということになりかねません。
私は堅気の生活をしていますから、悪人の知り合いはいませんが、世間の悪人にはそういう人がいるのかもしれません。
まあ、そこまで突き詰めれば、一理あるということです。

3 無を前にした、何かに縋りつきたいという渇愛。

ただ、議論がどうあれ、写真は残ります。
同様に、厳然として、ウィルスも物質として残ります。

子どものころ、分子がいかに小さいものか…という話として、
海からコップ一杯分の海水を採る。それを海に戻す。それから世界中の水をかきまぜたて、また、コップ一杯の水を採ると、前のコップの分子が200粒は入っている。
という図鑑の説明を読んだことがあります。

だから、かつて私の体液だった一部の水分子は、誰かの体に入っているということがあるでしょうが、そういう事柄は、生きた証とは言えません。ウィルスによって体が変化させられる、そういう形で、自分の生を残したかった、入我我入ではないですが、ウィルスが環境の中に放出されることで、自分もこの世界と一体化したい。

そういう、願望だったと思います。

※ この人を擁護しているわけではありませんので、コメントはご自由ですが、ご注意ください。

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