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2019年07月08日06:38

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「心」の害と、青春期の意義について

友人が、Facebookに近い趣旨のことを書いていました。

『快庵的傳大中寺禪室内秘書』に、
心配すると、それがついて回るという趣旨のことが書かれています。

交通事故を心配すると、事故の心配に悩まされ続けるし、
下手をしたら、事故に逢う場合もあります。

…私は、軽微な事故を体験しました。十五年前のことです。
(軽に足を轢かれました。しかし、足の指は完全に車輪の下敷きになったはずなのに、骨は折れませんでした)
しかし、その数日前に、「今、この駐車場から車が発進したら、足を轢かれるな」と思った記憶があります。こういう記憶があるのは、私だけではないはずです。

心配すると実現する。それも、チラッと思ったときにこそ実現する。。
それを考えたことがありますが、途中で縁起が悪いので止めました。この問題は、そのままペンディングしています。

もちろん、まるっきり心配しないわけにはいきません。

私の母と母方(商人)の祖母は心配性です。
それも極端です。幼い私が使うシャープペンシルのキャップには、万一、吸いこんでしまったときのことを考えて、全て穴があけられました。

ところが、父方(地主、教師)は、酷く無関心です。
釣り船から、子どもが海に飛び込んでも「清は、泳いで浜に帰るだろう」というほどです。
伯父がぼくを新しい釣り船に載せようとしたら、母が絶対反対しました。

結果はどうだったかというと、
母方からは、
事故はありませんが、成人病で従兄が二人亡くなりました。ガンです。心配性になったからかな…などと思うこともあります。実際に、40代で亡くなった従兄は真面目なタイプ。40そこそこで次長と出世も早かったですが、会社から帰ると鬱憤があるからか、浴びるように酒を飲んでしました。「バカ飲みをするな」と私にも言い残して、肝臓がんで亡くなりました。

父方は、従弟が小学生のころに、伯父のライターで畳を焼くという遊びにハマって、「どうせ、建て替えるから…」という奇妙な理由により、誰も注意しなかったので、家が半焼しました。

どっちもどっちです。

事故を起こしたり病気になったりしなくても、
心配する/しない
は、弊害があり、場合によっては心に深い傷を残します。

沢庵は、次のように述べています。
「蓮の泥に染まぬが如くなれ。泥にありても苦しからず。よく磨きたる水晶の玉は、 泥の内に入っても染まぬやうに心をなして、行き度き所にやれ。心を引きつめては不自由なるぞ。」(『不動智神妙録』)

私に訳すと
「心を、蓮が、泥に染まらないようにせよ。泥の中にあっても不都合ではない。よく磨いた水晶の玉が泥の内に入っても泥に染まらないように心を作って、こころを行きたいところにやるがよい。心を引き締めて詰めては不自由であるよ」。

心配や不安は仕方がないとして、それに囚われない。本当に自主的にふるまわなければいけない、こういう心境になれるかどうか。そこに万事がかかっています。

恐れなどの心理はある。それはそれとして、囚われずに行動する。
一見、沢庵のような高僧の修行の成果と思われますが、凡人でもそうしなければならない時があります。

恋愛(とくに性交渉を伴うもの)、自動車の運転など、誰の助けもなく、判断に失敗したらとんでもないことになる青年期の瞬間です。

青春の意義というものは、こういうところにあると思います。


心配性の親や祖父母が「子ども」に与える悪影響
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=77&from=diary&id=5696217
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