日清戦争終結後、極東の利権をめぐって日露の間では厳しい対立が激化し、ついに明治37年1904年2月4日緊急御前会議に於てロシアとの開戦が決定された。既に着々と開戦準備をすすめていた日本軍は直ちに出撃し、朝鮮半島の仁川港沖に停泊中の巡洋艦ワリャーク号に対し連合艦隊第4戦隊『浅間』が一斉砲撃を始め日露戦争の火ぶたが切って落とされた。そして、翌明治38年(1905年)10月14日のポーツマス講和条約締結まで老いたる『ロシア帝国』と若き『大日本帝国』が死闘を繰り広げることとなった。その当時、国力、軍備、領土、資源量、その他あらゆる点に於いてロシアは日本より勝っており、世界中がこの戦争は紛れも無くロシアの大勝利に終わるであろうと予想していた。しかし、その予測に反し、緒戦から日本はロシアとほぼ互角の戦いをすすめていった。そして、旅順港を守備していた太平洋艦隊司令長官マカーロフ提督は旗艦ペトロパブロフスク号に座乗中機雷に触雷して戦死し、その後明治38年5月の対馬沖海戦等では、東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊がバルチック艦隊を壊滅させ、数十隻の艦隊を率いてサンクトペテルブルグから大遠征した第二艦隊司令長官ロジェストベンスキー提督は重傷を負って日本軍捕虜となるなど、その後の戦いの雌雄を決した。さて、殺戮の続く陸海戦場では連日死傷者が続々と発生し、日露合計死傷者は50万人にも達した。又、予想をはるかに越える総数7万1干947名の傷つき、疲れ果てたロシア兵が虜囚の縄目を打たれ、続々と日本各地に送られて来た。彼等は松山、大阪、金沢など全国に急遽設けられた27ケ所の露国兵俘虜収容所に収容され手厚い看護の手が差し述べられたという。中でも大阪府堺市濱寺及び大阪市天下茶屋に設立された収容所では旅順から送られた約二万八千人のロシア将兵を収容し、周辺住民などとも様々な交流があった。
その当時、濱寺一帯は極めて風光明媚な景勝地で、そこに突然巨大なロシア人町が出現したのである。当初、白い幕営が砂浜に張り巡らされ、その後突貫工事で木造収容所を建設するまでの仮住まいとした。そして、村人達はロシア人見物に手弁当持ちで出掛けたり、こっそりと酒を売りに行ったり、中には清涼飲料水クワスの作り方をロシア人から学びクワス製造工場まで作った者もいたと言われている。ところで、日本各地のロシア正教徒たちは開戦と同時に『売国奴』、『露探(ロシアのスパイ)』と罵られ、数々の中傷と攻撃が行われた。しかし厳しい迫害の中でニコライ大主教は日本人信徒に『日本の勝利のために祈る』事を勧める一方、ロシア兵俘虜のために全国の収容所に日本人神父を派遣し彼等は寝食を忘れ、ロシア語による祈祷を行い、死を迎えようとする者は神父の折りの中で懺悔し、安らかに天国に召されていった。その後、抑留中に死亡した373名のロシア将兵の墓地が日本各地に整備されたが、とりわけ多くの者が葬られた松山(98名)と大阪府泉大津市(89名)の2ヶ所には無事帰国を果たしたロシア将兵俘虜及びロシア帝国・アレクサンドラ皇后などからの献金を元に、聖堂が建設されることとなり大阪聖堂は大阪市内に明治43年に完成することとなった。又、泉大津市春日町114番地にはロシア人将兵の墓碑89基が日本人墓地の隣に整然と並び、季節の花と線香が今も絶やされる事はない。これは、日露親善を願う中岡嘉雄さん(元泉大津市会議員)を始めライオンズ・クラブなど多くの地元有志による献身的な除草、清掃、墓参などが戦争終結後既に90年の歳月を経た今日も営々と続けられているからである。今年5月には泉大津市では葬られているロシア将兵の子孫と、武士道に則り人道的にロシア人俘虜を扱い深く尊敬されたと言われる、猥部潜少将(元俘虜収容所長)の子孫などが参加する日露親善友好を深める慰霊祭が予定されている。
(1997年2月1日・日本ユーラシア協会機関紙掲載)
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