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2016年04月07日20:01

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郷土の誇り・蘭学者箕作阮甫(みつくりげんぽ)

〜津山藩医・蘭学者箕作阮甫とパラダ号の長崎来航〜

緑の中国山脈を左右に見ながら、大阪から車で一路西へ約2時間30分走行すると、せせらぎを白鷺が散策する吉井川が蛇行し、桜の名所としても名高い森忠政(織田信長小姓・森蘭丸の弟)が築いたとされる城跡(鶴山公園)の聳える、岡山県津山市に到着する。その昔、大陸文化を日本中に伝播した出雲街道に沿った、江戸情緒を深く残した低い軒並みに格子窓、ナマコ壁の町屋と侍屋敷の続く中を、城跡から東に10数分たどると箕作阮甫旧宅と表示された一軒の町屋が国指定史跡文化財として保存されている。安政元年(1853年)ロシアの全権代表・プチャーチン中将は4隻の艦船を率いパラダ号で長崎に来航し我が国に開国を求めた。そこで、幕府は、筒井肥前守政憲などの全権団を急遽江戸から長崎に派遣し慎重に交渉に当たらせた。この最初の日露和親条約締交渉に幕府側代表団の陪臣として参加し、主として外交文書の翻訳及び交渉についての重要な助言を行った人物が、当時作州津山藩医として江戸屋敷に詰めて居た箕作阮甫であった。そして、翌年の下田に於ける再開交渉にも参加し、それを成功裏に導く重要な役割を果たした蘭学者・阮甫は1863年に65才で没するまで、蛮書調所(東大の起源)教授などを歴任し、一層学術の研究に励み、医学、兵学、地理、歴史、造船、宗教など広範囲に渡る西洋文化を日本に紹介した第一級の洋学者であった。そして、この異色の人物に親しく接したロシア側代表団にも極めて強い印象を与えた阮甫は、船上にいた作家ゴンチャロフの『日本渡航記』にも、幕府側代表団をパラダ号の夕食会に招待した際の情景として次のように描かれている。『私は別の部屋もちらリとのぞいた。そこでは宴もまさにたけなわであり、幾人かの酔った顔と、愉しそうな微笑が、客人達もまた私達のワインを試みた事を証明していた。彼らの中に髷をつけていない丸坊主に剃り上げた顔を見かけた。それはドクトル(箕作阮甫)であった。彼をこちらのドクトルに紹介したが、いたって活発な男で、わずかながらオランダ語も話す。』恐らく、阮甫は蘭書の翻訳には秀でていたが連日オランダ人と接触する長崎通辞の方が極めて流暢なオランダ語を操っていたのであろう。『わずかながらオランダ語を話す、いたって活発な男』と記録されているのは興味深い。さて、この後下田で翌年交渉を再開した両代表団は双方様々な困難を乗り越え、1854年に平和的に日露和親条約を締結し、いよいよ正式国交を開始することとなる。この時プチャーチンに同行していたモジャイスキー中尉によって描かれた、眼光鋭い阮甫の肖像画は現在ロシア中央海軍博物館(サンクト・ペテルブルク)に所蔵されており彼の俊才振りをしのばせてくれる。ところで、この町にはユニークな津山洋学資料館が設立され、藩主松平家の藩医・宇田川玄随に始まり箕作一族へと連なる津山洋学(蘭学)関連資料の収集、保存を行い、絶え間ない研究が熱心に続けられている。そして、阮甫の長崎行きの経緯を詳しく伝える日記『西征紀行』を10年の歳月を費やして解読、出版に二ぎつけた名誉館長・木村岩治さんなどの発案により1996年1月にはパラダ号のメニュー再現晩餐会(約80人参加)が在大阪ロシア総領事館の協力のもとに津山で開催され、コマロフスキー総領事、津山市長などの列席のもとで140年前の日露の暖かい交流を想い起こしながら、改めて両国の友好親善を深める一時を過ごした。

(関西日露交流史研究センター代表 岩佐毅、日本ユーラシア協会機関誌記事再録)

写真➊ 箕作阮甫肖像画(ロシア将校モジャイスキー作)
写真❷ 阮甫旧宅











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