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2026年01月07日21:27

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『マーラー 音楽観相学』

『マーラー 音楽観相学』
《叢書・ウニベルシタス 628》

テオドール・W.アドルノ著、龍村あや子訳
法政大学出版局(2014年新装版)

マーラーについて書かれた文章やサイトによくこの人の言葉が引用されている気がして、マーラーを語るならアドルノぐらい読んどけ的な雰囲気を漂わせている? ということで挑戦しました。実のところ読み始めたのは一昨年の年末からで、1年以上かかっています。いったんおしまいまでざっくり読み、2周目は少しづつ読んで半分くらいまできていますが、正直つらい……。根気が続かなくなってきたのと、そろそろ別の本読みたいf^^;ということで、この辺で感想アップ(両手もアップf^^;)になりました。もうだいたいおわかりでしょうが、難解という噂は本当です。マーラーがよほどお好きなら別ですが、普通にはちょっとおすすめできない。その理由から3つ挙げます。

その1 用語が独特・難解。読み始めてすぐに気が付くのが見慣れない用語の数々。「突破」だの「一時止揚」だの、独自の意味付けがされた音楽?哲学?用語を多数駆使して文章を組み立てています。巻末の訳注に一応説明がありますけど、その説明自体が難しい。巻末には訳注のほか原注や索引があって、栞などですぐ開けるようにする必要があるため、用語説明はできれば巻頭に持ってくるか、もしくは別に「アドルノ語辞典」、いやそれに並行してアドルノ語教室がいるのではないかと(爆)。

その2 文章が長く読みにくい。用語に加えて、文章そのものも難文です。ひとつの文章が正確を期してかやたら前置きや条件や限定付きが多く、回りくどいうえ、長文の果てに「……ではない」という否定で終わったりする。原文ではさほどでもないかもしれませんが、日本語では否定が最後に来るのできついんですよ。読者が思ってもいないことを長々と否定して、それがなんだというのか? アドルノがこれを書いたころにはそういう主張があったのかもしれませんが……。この種の否定文は、以前読んだダールハウスの『ベートーヴェンとその時代』にも顕著に見られたので、20世紀中頃までのドイツではこういう書きぶりがスタンダードだったのか? 否定したからには、その後に肯定するものが続くわけですが、そこからがまた長くてなかなか頭に入ってこない(ーー;)。

その3 構成が大雑把すぎる。全体は「音調」や「小説」などといった8章からなり、ひとつのテーマの中では小見出しすらなく段落や改行も数ページにわたってないような長文の羅列です。また、マーラーの曲目や生涯について順に追っていくのではなく、テーマごとに対象となる曲のあちらこちらを引っ張ってくるというスタイル。そもそも「音楽観相学」と題されており、観相学って、占い?  少なくとも曲目解説が目的ではないということでしょう。もちろんマーラーの伝記的な要素や親しめるようなエピソードの紹介はほぼありません。譜例も一切なし。音楽を文章で語ることとそれを読み取ることの困難さをいやというほど味わうことになります。

以上、現代では「悪文」の典型といっていいようなもので、みっちのような軟弱な読者が1周半もしたのは自分を褒めてやりたいくらい。とはいえ、最初にある程度わかったこともあって、それが終わりまで読む動機づけになりました。というのは、第1章「天幕とファンファーレ」のはじめの部分で交響曲第9番について語っている箇所で、下に引用します。

「マーラーの第九交響曲に書かれてしまったあの馬鹿げたほど大げさな『死が私に語りかけること』という標題は、真理の契機を歪曲するものとしては第三交響曲の『草花や動物たち』よりもたちが悪い。なぜなら、第三の場合には作曲家の頭に浮かんだことではあるのだから。」

つまり、交響曲第3番の標題は一度は作曲家自身が付けて後に廃したものですが、9番については本人とは関係ないところでそれっぽく語られている、と言っているわけです。この本の出版は1960年で、この文章に先立つ冒頭から「グスタフ・マーラーに対して、あのヒットラー政権ばかりか音楽史がマーラーの没後50年にわたって与えてきた判断を修正することはむずかしい。」とする文脈でアドルノが述べているのは、マーラーの音楽を標題音楽のように解釈するのは不適当だということであり、題材と標題は別物だという主張です。しかし、それから50年以上経ったいまでもアドルノのこの苦言は通用するのではないでしょうか。というか、アドルノを引用している文章からして、一方で「第九のジンクス」みたいな逸話を無批判に受け入れていて、アドルノほんとに読んだ? といいたくなるものもあったようなf^^;。

また、マーラーの音楽について指摘されることが多い言葉として「死」と並んで「喪失感」があります。マーラーが彼の音楽の中に通俗的な素材を持ち込んでいるのは、それが過去にあった幸福やその名残を喚起するということですが、アドルノは第3章「性格的要素」でちょっと長いですが以下のように言及しています。

「マーラーのロマン主義は、魔術からの目覚めと悲哀の情、そしてじっと過去を思い起こすことによって、おのれを否定する。しかし歴史的に見るならば、彼の形象世界は、彼自身の歴史的時点の形象として見ても、別れの言葉にほかならない。つまりそれは、後期産業社会のヨーロッパの中で、伝統的・前資本主義的ヨーロッパが囲い込まれている領地にあって、何とか生きのびていたものへの別れであり、またすでに歴史的発展によって判決を下されながらも、ある種の幸福の照り返しによって輝いていたものへの決別なのである。ただしその幸福とは、単純な商品経済が生産様式として支配していた限りにおいて、実は決して現存していたものではなかったのだが。マーラーの昔のドイツ風のイメージは、まさに1900年頃の夢の願望なのである。」

切り詰めていえば、マーラーの音楽の喪失感は単純ではなく「実はなかったものへの喪失感」だというわけです。はいf^^;。難しさの一端がわかってもらえたかと思います。この章の後半では、これこそ性格的交響曲と呼べるとして、交響曲第4番について9ページのまとまった論考があり、これは2度目に読んだときに慣れてきたのか、自分なりにけっこう理解したつもりになれました。これもちょっとだけ引用します。

「非常に小さな音でフルートの8分音符を色づける第1小節の鈴は、以前から一般の聴衆に、馬鹿にしているのではと感じさせ、ショックを与えた。実際これは道化の鈴であり、言葉にして言うことなく、『君たちがこれから耳にすることは全部本当ではないよ』と語っているのだ。」

引用でますます長くなったのでこの辺にしますが、翻訳者も通常の3倍の労力を費やした気がするというほど大変だったみたいです。マーラーお好きなら、お試しをf^^;。
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