本日の世見 2025年4月17日(木曜日)
『与謝野晶子』
私を育ててくれた母は明治生まれです。
母って、凄い考え方の人だったのがわかります。
与謝野晶子の「ああ 弟よ 君を泣く 君死にたまふことなかれ」の反戦詩は、心を奪われ甥が戦地に向かうかもわからない日に、この詩を言って聞かせたといいます。
この反戦詩は明治37年に詠まれました。
日露戦争の頃、日本は軍国主義の真っただ中でした。
この詩は、天皇に対する不敬に当たると、当時大きな論争を巻き起こしました。
母はこの反戦詩が世に出た7年後の明治44年生まれです。
母は、与謝野晶子の一貫性のなさにはガッカリしたみたいで、「人は変わるなぁ」とも言っていたので、私ね、与謝野晶子に興味がわいて、娘時代に晶子の詩を読んでみたら、第一次世界大戦の時には戦争を美化した詩を詠んでいました。
でも、与謝野晶子の生き方には拍手を送りたくなります。
与謝野鉄幹ってどんな人だったのでしょうか。
鉄幹と言えば「妻を娶らば 才長けて 見目麗しく 情けあり 友を選ばば 書を読みて 六分(りくぶ)の侠気 四分の熱」が有名です。
でも鉄幹って、女性にもて過ぎたのか、恋物語があり過ぎます。
晶子も情熱過ぎる女性でした。
妻から鉄幹を奪い取って結婚。
17年の間に六男六女、計12名もの子供を産んだのですから見事です。
私の母は与謝野晶子に憧れていたのかもしれません。
子供の頃には許嫁(いいなずけ)がいたみたいですから、私も晶子のような恋 の人生もやってみたかった気がします。
鉄幹をヨーロッパに遊学させただけでも凄いのに、女一人でシベリア横断をして「巴里の君へ逢いに行く」なんて、アッパレ過ぎます。
ウラジオストクの地には、晶子が詠んだ詩が石碑に刻まれて残っています。
「女の恋の切なさよ 晶子や物に狂ふらん 燃ゆる我が火を抱きながら 天がけりゆく 西へ行く 巴里の君へ逢ひに行く」
晶子の憧れた母の気持ちがわかります。
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