mixiユーザー(id:12410478)

2025年04月07日09:25

182 view

宗教団体の本物は、社会福祉を営んでいる寺と、祈祷寺。

■「何この左折レーン、無理が過ぎるやろ笑」道路の真ん中にあるのは?こするドライバー後を絶たず…
(まいどなニュース - 04月03日 07:20)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=262&from=diary&id=8263119

前者の社会福祉を営んでいる寺は、高度成長までは当然のように存在した。
たとえば、劇画の『子連れ狼』。主人公の拝一刀が実在したら、健康に悪いしお金を持っているんだから、旅籠に泊まるはずだと思うが、流浪の牢人だという設定から、お堂に泊まっている。

『雨月物語』でも、そういう寺の施設に泊まったり勝手に雨宿りするシーンが出てくる。
また、夫婦げんかの仲裁など、もめごとや人生相談に住職が乗り出すこともあった。
身寄りのない寡婦などの身の振り方を考えるなどという広い意味での福祉にかかわる場合があった。

それが、地域の人の求心力を失い、しかも、幼稚園、墓地の造園などの経済活動に染まって巻き込まれていく。

一方では、現在でも祈祷寺も存在する。
知人が、ある奈良県の有名な寺に初詣に行ったら、輪ゴムで閉じたと思われる札束が後ろから飛んできて、賽銭箱に入ったそうだ。
信者で、本尊にすがる人は、勤行をする。「わらしべ長者」のような成功例というか、ご利益をいただいた例はたくさんあるが、『今昔物語』『宇治拾遺物語』の記述から省略されていることは、この長者は、相当厳しい勤行をしたことである。一座の読経や五体投地で30分くらいか。それが、延々と続く。

だから、本尊に対する崇敬に、自分の身も入って行くのであり、それが、信仰なのだろう。

観察すると、

講の人間関係的な一体性があるのが、新興宗教。
たとえば、どんな男でも、彼女ができる。自分が内装屋だとしたら、信者仲間の建築屋から仕事がもらえるなど。そのシステムを最初に作ったのは、庭野 日敬で、信者はわざわざ電車に乗って隣町の信者仲間の八百屋に買い物に行ったという。

ところが、伝統宗教の講は、確かに頼母子講のように、メンバーに金を貸し付ける信用金庫のような働きもしたが、人間関係的な一体性はなかった。まあ、よく言えば、見ず知らずの他人でも助け合えるし、仲間だからということに拘束されない大人の関係ということだろうか。

今は、新興宗教が大流行りだ。

この神社も、今更、新興宗教になれない。
可能なら、鳥居を移転させるか、道路のコースを微妙に変えることからスタートして、まず、一般の信者を固めるしかないのかな。

補足

ただ、有名神社には、初詣のお賽銭で悠々とやっていけるところもあります。
その、最も悪い例は、利権を巡って弟が姉を殺害した、富岡八幡宮です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE

こういう現象があるから、大寺院は保守化しがちである(新しいことをやらない)と聞きますが、この神社はどういうタイプでしょうか。


5 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2025年04月>
日 月 火 水 木 金 土
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930