昭和16年3月1日の待命後、しばらく京都にいましたが、秋九月に郷里鶴岡に帰りました。北に鳥海山の秀峰を仰ぎ、南に臥牛といわれる月山連峯を眺める荘内平野の中心地です。初め鶴岡市の南端番田というところの時雨荘に落ちついたが、後に高畑にある文豪高山樗牛の旧屋敷内の斎藤求氏邸に移りました。
石原将軍を迎えた郷里荘内の東亜連盟運動は、力強く進展していきました。郷里に限らず石原将軍は積極的に全国を遊説しています。 帰郷後間もない九月に新潟市において「満州事変の思い出」という講演をしているし、十二月には四国の高知市において「大東亜戦争と東亜連盟」の講演をしています。
翌年一月には、東亜連盟中央講習会において「世界最終戦争と大東亜戦争」など、多忙の日を送りました。これらの講演内容は刊行物となって公刊され、あるいは石原将軍自らの執筆もあって、東亜連盟思想は漸次世に紹介されるようになりました。
当時の重なる出版物をあげれば、『世界最終戦争論』(昭和十五年九月、後『世界最終戦論』と改題)、『国防政治論』(昭和十七年十月)、『昭和維新宣言』(昭和十七年十月)、『教育革新論』(昭和十七年十一月)、『在満同胞に訴う』(昭和十七年十二月)などがあります。
時局と石原将軍、昭和12年7月7日に起こった盧溝橋事変において、石原将軍は参謀本部第一部長の要職にあって、極力不拡大方針を主張しましたが、大勢は拡大方針に進展しました。このことは重要な問題でした。
もし日本が不拡大方針をとって、これ以上隠忍すれば、支那の排日運動はますます強化され、今後、同様の事態が再三起こる可能性は十分考えられるし、北支の日本軍を撤退した場合、日本の在支権益や居留民保護の問題など、その判断は実際問題として容易ならぬ難事でした。
忍従にも限界があって、今一撃することによって、むしろ事変の拡大を阻止できるという見解も当然、成り立つのでした。しかし石原莞爾は世界状勢の洞察と多年にわたる軍事科学の研究から判断して、不拡大方針を堅持したのです。
石原莞爾によれば、当時日本の陸軍が動員できる兵力は三十個師団ですが、これを全部対支作戦にのみ使用することはできない。それはソ連の南下にも備えなければならないので、対支作戦に使用される兵力は大体十五個師団です。
もし対全面戦争に展開した場合、この十五個師団ではむりで、あるいはナポレオンが対スペイン戦争で苦しめられた、二の舞を踏むのではないかということでした。この戦争は即戦即決では片づかないで、必ず持久戦争になるという。
残念なことに、支那を数カ月で片づけるという拡大論者の見解は誤りで、八月に上海事件が起こるのです。事態は拡大のやむをえないことに進展し、日支事変は石原将軍の予言したように泥沼の渕に入ったのです。
石原将軍が退役して七ヵ月、昭和16年10月、第三次近衛内閣が総辞職して東条内閣が成立すると、時局は世界大戦の方向に進んだのです。そして12月8日の米英に対する宣戦布告となったのです。
事ここに至ったについては、日本の支那事変解決を妨げる英米の脅威を除き、日本の国策遂行上やむをえない歴史的必然でありますが、石原将軍の考えでは日支事変未解決のまま米英と戦うのは無謀であるという見解でした。
しかし当時の政府要路の責任者ならびに軍首脳部においては、国際情勢ならびに米英の戦力に対する分析が石原将軍と異なっていたのです。昭和17年秋、甘粕正彦の仲介によって、石原将軍は東京で東条首相と会談しています。
このとき石原将軍は東条首相に、「戦争は君では勝てない。このままで行けば日本を亡ぼしてしまう。即刻総理大臣をやめなさい」と進言したのです。こんなことから東条首相の石原将軍に対する弾圧は、一層きびしくなったのでした。
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