織田信長が四条西洞院の本能寺へはいったのは、5月29日です。近臣数十名を連れただけの身軽さでした。嫡子信忠のほうは、21日に二条衣棚の妙覚寺へはいっていたのですが、これまたどういうわけか小人数でした。
この頃、羽柴秀吉は備中高松城を囲んで、毛利の大軍と対峙していました。柴田勝家は、越中にあって上杉景勝を攻め、魚津城をまさに陥そうとしていました。滝川一益は、遠く上野の厩橋城(前橋市)にいて、ようやく関東の経営に手をつけはじめたばかりでした。
織田信長の有力な武将たちは、八方へ別れ散ってそれぞれが手いっぱいで、しかもその中枢である京都に、まったく無防備といってよい状態で信長父子がいたのです。いくたびか死地をくぐり抜け「戦国」という時代の厳しさを身にしみて知りつくしているはずの織田信長ですが、魔がさしたとしか言いようのない油断でした。
6月1日午後6時、丹波亀山城(亀岡市)を発った1万3000の明智光秀勢は、夜をこめて山陰道を京都へ向かっていました。老の坂の峠を越えるころ、短い夏の夜はしらじらと暁け初めます。夜霧を吸って重く垂れていた水色桔梗の旗が朝風にひるがえり、明智光秀の目の下に、まだ覚めきらない京都の町がひろがっていました。
明智光秀の鞭がその一点を指します。兵も馬も総身の毛をそそけ立たせる。この爽快の一瞬に、明智光秀は全生涯を賭けました。それこそ「戦国」に生きた男が、一生に一度味わうことができるかどうかわからぬ決断の時だったのでしょう。
織田信長は外の騒がしさに眠りを破られた。下卒たちが喧嘩をしているのだろうと思った。そのとき、蒼白な顔をした森蘭丸が、ひきつった声で告げました。「日向守が勢と見えます」言い終わらないうちに、鉄砲の一斉射撃が起こりました。
塀を乗り越える水色の桔梗旗を見たとき、織田信長は「是非に及ばず」と呟いた。かつてこの旗をいくたび目にしたことだろう。それは東美濃の諸城にひるがえり、稲葉山城にはためいていました。乱戦のうちに身近に迫ったこともしばしばありました。
遠い昔の出来事のように思える。滅び去ったはずの土岐の旗、その亡霊の旗が今この本能寺を取り囲んでひしめいているのです。明智光秀の一挙を、後世の人びとは謀叛と評しました。生き抜くために、また一国一城を奪うためには、肉親さえ討ったのが戦国という時代でした。そして奇襲こそは、もっとも効果的な攻撃だったのです。
理由は何もいらない。そこに天下が転がっているから、明智光秀はそれを掴もうとしたまでのことでした。天下一統の世はまだ遠い。なお西に東に戦雲は動いてやまないのですが、それらの合戦はもはや、起こるべくして起こった戦い、時局を収拾するための戦いでした。天正10年6月2日、本能寺の襲撃を最後に、戦国は幕を閉じたといってよいでしょう。
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