美濃の齋藤道三の側室(小見の方・明智光秀の縁者)の娘の帰蝶(濃姫)が織田信長と結婚しましたが、その後について残っているのは、ともかくも出来すぎた話だけで、以後はどうなったのか全然判らないのです。没年も記されず、もちろん墓所も判っていないのです。
濃姫はいったいどこへ消えてしまったのか。それについて、一つの推定を下すことはできます。織田信長の嫡子は信忠ですが、信忠の母は生駒氏であることがはっきりしています。すなわち、生駒氏は、織田信長の第二の正室なのです。
本能寺の変で信忠が討死をした時、年齢は26歳でした。これは諾書の記述が一致しています。とすれば信忠は、弘治3年(1557)に生まれたことになります。いいかえると、弘治3年かまたはその前年、すでに織田信長の正室は生駒氏になっているのです。
正室が二人あったということはあり得ないし、誇り高い土岐一族明智氏の血をひいた濃姫が、側室として信長の傍にのこったとも考えられません。とすると、濃姫はその以前に亡くなったのだろうか。これが考えられるひとつの推定です。
もうひとつ、髪をおろして仏門にはいったのではないか、という推定もできないことはないでしょう。斎藤家の菩提所常在寺に道三の画像があって、『諸旧記』も『美濃明細記』も、 「信長公の北の方の御寄進なり」と説明しています。
濃姫が嫁いだ翌々年、母親の小見の方は39歳で世を去っています。そしてその5年後には父親の齋藤道三も討死をとげています。齋藤道三の強引な「国盗り」は、生きているうちはまだしもだったが、討死をした後はあからさまな悪評となって世に流れました。
母親の実家である明智家も、齋藤義竜の攻撃を受けて一家が離散しています。四人の男兄弟のうち二人は齋藤義竜に殺され、二人は仏門にはいったのです。濃姫はあっというまに天涯孤独になってしまったのです。
亡父の画像を描かせて菩提寺に納め、そのあと髪をおろして世を捨てた、ということも十分ありうるのです。帰蝶という名には、何かはかない美しさを連想させるものがあります。のちの天下人、織田信長の最初の正室として、華やかな婚礼の印象を残しただけで、彼女は戦国の歴史の中からそっと姿を消してしまったのでした。
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