高度経済成長の全体の動きは非常にうまくいっていました。ところが、ちょうどうまくいっているあたりから、公害問題や環境問題が方々で表面化してきました。もちろん何もこの時になって急に発生したわけではありません。
太平洋側の美しい砂浜などの自然が次々に製鉄所や石油コンビナートなどに取って代わられてからのことですが、表面化しながらも誤魔化されてわからなかっただけです。昭和44、45年あたりからそれが目立ってきました。
研究が進み、水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、川崎ぜんそくなど、どんどん公害による悲惨な病気の実態がわかってきて、大問題になっていくのです。遅すぎるほどでした。水俣病が公害と認定されたのは昭和43年(1967) 9月26日です。
さすがに国も放っておけなくなり、佐藤内閣がようやく環境庁を発足させたのが昭和46年ですから、かなり対策が遅れていたわけです。まったく軽視していたと言えば言いすぎかもしれませんが、上の方では公害というものをあまり真剣に考えていなかったのではないでしょうか。そう思うほかはないでしょう。
また同時に、田子の浦ヘドロ、東京の光化学スモッグのような環境汚染なども、徐々に問題視されていきました。そしてまた対外的には、アメリカがベトナム戦争で、安保条約があるために日本を基地として使用しているのは、日本政府が戦争に加担していることだと反発が高まります。
また隣を見れば、中国では文革で紅衛兵がガンガンやっている、なかでも一番直接的にはフランスの「五月革命」の果敢なる闘いに影響されました。鬱屈していた日本の学生たちが昭和43年秋ごろからパワーを噴出しはじめます。
そのパワーの中心になったのは誰かといえば、これが「団塊の世代」なのです。昭和22〜24年あたりに生まれた人約7百万人で、ベビーブームの落とし子です。なぜその頃ベビーブームかといえば、外地から兵隊がどっと家族のもとに帰ってきて、一所懸命に、律儀に子作りに精を出したからです。
それはともかく、生まれた子どもたちは数が多いものだから、小学生時代からとにかく競争競争なのです。学校も施設が昔のままなので午前と午後の二部授業だったり、一教室60人くらいでスシ詰め教育でした。
これよりほんの少し前の昭和21年(1946)に生まれの東京の小学生は一学年4組だったのが、翌年は8組になり、その翌年は10組になったといいます。学校は建て増しをしますが、追いつかないのです。
加えて、数が多すぎるから一人ひとりは常に粗末にされ、冷遇されたそうです。皆がそうならともかく、そこに差が出ようものならすぐひがみにつながり、クソッという闘争心が起こってたちまちキレてしまう。そんな子どもが大学生になっていったわけです。
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