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2023年09月24日08:13

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サラエボ事件とは


1914年6月28日、サラエボにおいて、オーストリア皇太子がセルビア青年に殺害されました。サラエボ事件です。オーストリアがこの事件に対して、何らかの対セルビア行動をとることを、諸大国のすべてが、当然のこととみなしていました。

オーストリアの国内世論も、軍隊の動員を当然のことと受けとめました。こうしてサラエボ事件によってオーストリアは、過去200年にわたりバルカン半島の安定を求めて対抗してきたスラブ民族のナショナリズムに対して、優位を獲得する絶好の機会を得たのです。

とはいえサラエボ事件そのものは、バルカンにおける局地的な事件でした。ドイツやロシア、イギリスなどが直接関与しない出来事です。その意味で、ボスニア危機やバルカン戦争と同様です。ではなぜサラエボ事件は、ボスニア危機やバルカン戦争とは異なり、ヨーロッパ大戦の引き金となったのか?

ここでオーストリアとドイツとの関係が、大きな意味を持つのです。オーストリア=ハンガリーは、このセルビアとの闘いに勝利するために、ドイツの支援を不可欠とみなしました。ちょうど1909年にドイツの対ロシア圧力が有効であったように、ロシアの対セルビア支援を阻止するためには、今回もまたドイツの支援を必要としました。

外相ベルヒトルトは、オーストリア皇帝の親書を持たせた特使をドイツへ派遣しました。これに対しドイツのカイザーは、7月5日にオーストリア特使と会い、ドイツの対オーストリア全面支持の約束(いわゆる白紙委任)を与えたと言われています。

7月14日になってベルヒトルトをはじめオーストリア閣僚会議は、オーストリア=ハンガリー内の戦争消極派を抑えて対セルビア戦争を決定しました。同23日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに対して最後通牒を送り、同28日に対セルビア宣戦布告された。

ドイツはこのときオーストリア=ハンガリーに対し、可能な限り速やかに対セルビア攻撃に入るように圧力をかけました。これは、オーストリアの即座の対抗攻撃の実行が、ロシアに対してオーストリアの強い意志表示となり、ロシアの対セルビア支援を躊躇させることになると考えたからでした。ドイツは、ロシアの動員に脅威を感じていました。

なぜならドイツの戦略が、シュリーフェン・プラン Schlieffen plan と呼ばれる二正面作戦に支えられていたからでした。シュリーフェン・プランとは、ドイツがヨーロッパ大陸の戦争に勝利するためには、対ロシア対フランスという二正面戦争に勝利せねばならず、そのためにはロシアの動員が完了する前に、電撃作戦でフランスを叩き、その後に全勢力を東方へ向けるというものです。

したがって、もしロシアによるドイツ国境への全面的動員が行われれば、ドイツもそれに対抗して東部国境線に動員せねばならない。そうなれば西方国境は無防備のまま、フランスからの攻撃にさらされてしまう。これは、戦わずしてドイツが敗北することを意味した。

もしそうなれば、ロシアとフランスが要求するであろう外交的解決を、ドイツはすべて受け入れなければならなくなる。したがってロシアの動員は、ドイツの外交上の完全敗北となる、とドイツは結論付けました。この点に、ドイツの参戦が必然的にヨーロッパ戦争へ拡大する要因があったのです。

7月28日、オーストリアによる対セルビア宣戦布告されました。ところがロシアは7月30日、ドイツとオーストリア=ハンガリーの思惑に反し、動員を決定しました。動員の理由として、次の三点をあげることができます。

オーストリアによるセルビア支配を避けるため。なぜなら、それがオーストリアによるバルカン支配へ、ドイツによるトルコ支配へとつながるからです。ドイツとオーストリア=ハンガリーによるバルカンや海峡の支配は、ロシアの死活的利益の脅威となるからです。

ロシア社会のあらゆる層の人々が、セルビアと何らかの関係をもっているため。 1909年と違い、フランスが明確にバルカンでの対ロシア支持を表明しているため。もし今、ロシアがドイツとオーストリアに対して後退すれば、今後フランスからの援助は期待できないかもしれないと考えたからでした。

しかしロシアにとってこの動員は、バルカンにおけるロシアの影響力低下を懸念しての、どちらかといえば防衛的目的からの動員であり、いくらロシアが1909年よりも軍事的に強大化していたとはいえ、オーストリアに対する警告以上のものであったとは考えられない。

対オーストリア戦争の意図もなく、ましてや対ドイツ戦争などは決して想定されていなかったはずです。ここにも、たとえ防衛的目的であっても、相手国には攻撃的と思われてしまうという、国際関係を理解する上での重要なポイントの一つを指摘できます。

ところが、対セルビア援助のためのロシアの動員が、結果的には開戦へと道を開いたのです。ひとたび動員へのステップが始まるや、あたかもすべての国々が、敵対国の動員に対して対抗動員をとることが当然のように考えられたのでした。

ドイツは、翌31日にロシアの動員の解除を要求して、対ロシア最後通牒を発し、翌8月1日に宣戦布告しました。続いて同3日にはフランスに対しても宣戦布告しました。8月4日のドイツ軍のベルギー侵入を機にイギリスも対ドイツ宣戦をおこないました。8月6日にオーストリア=ハンガリーも対ロシア宣戦を、同12日にイギリス・フランス両国が対オーストリア=ハンガリー宣戦を布告し、ここに第一次大戦が始まったのです。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

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