地中海のど真ん中、北アフリカの一角(現在のチュニス近辺)に位置するカルタゴは、地中海の覇権大国として君臨していました。もともとはフェニキア人の植民都市で、地中海貿易で富を築いた商人国家です。これと対峙したのが新興の軍人国家ローマです。
まずシチリア島の覇権をめぐって両国は争い、コルプスなる新兵器を装備したローマ海軍が勝利します。これが第一次ポエニ戦争、紀元前264年のことです。以来、カルタゴがローマ軍によって地上から抹殺されるまで、百年余にわたって死闘が繰り返されるのです。
地中海の制海権をローマに奪われたカルタゴは、起死回生をめざしてイベリア半島に進出、 カルタゴ・ノヴァ(新カルタゴ 現在のスペイン・アリカンテ)を建設します。だがここでもフランス側から南下してきたローマと衝突します。
ローマを倒さずにカルタゴの将来はない、と観念したカルタゴはローマ遠征の軍を起こします。第二次ポエニ戦争です。そのときの軍司令官が弱冠26歳のハンニバルです。イベリア半島からイタリアに攻め上る道はふたつあります。
ひとつはリグリア海岸(現在のコート・ダジュール)沿い、いまひとつはアルプス越えです。勝ち急ぐハンニバルはアルプス越えを選んだのです。歩兵3万8千、騎兵8千、それにアフリカから連れてきた戦象37頭という大軍勢です。
これだけの大軍勢が標高3千メートルに近い山からの攻撃だが、疲労がすさまじく攻め落とすことができませんでした。そこに目をつけたのがローマの知将ファビウスです。ファビウスはひたすらハンニバルとの決戦を避け、持久戦に徹したのです。
ハンニバルとファビウスの戦いについては、クラウゼヴィッツも「双方が決戦を求めない場合の戦場防衛」の戦いです。ハンニバルがファビウスと引けば攻め、追えば引くの堂々めぐりを繰り返している間に、ローマ軍はイベリア半島を制圧し、カルタゴ本国に攻め込んだのです。
やむなくハンニバルは本国に引き揚げますが、ザマの決戦でスキピオ率いるローマ軍に敗れます。その結果、 カルタゴは戦争放棄、多額の賠償等々の屈辱的な講和をのみ、名実ともに商人国家として再スタートします。もともと商売上手の国民です。
みるみるうちに経済大国に復帰します。一方、ローマのほうの経済復興は遅々として捗らない。となればローマがカルタゴの金をねらうのは自然の成り行きでしょう。「ローマの野望に注意せよ」と、ハンニバルはカルタゴ市民に事あるごとに訴えました。
だが、カルタゴには親ローマ派の貴族がいました。先の講和で人質としてローマに連れていかれ、洗脳された連中です。ローマかぶれの彼らは逆に、「ハンニバルはローマとの戦争をねらっている」と中傷し、ローマの圧力でハンニバルは遠くアルメニアへ亡命をよぎなくされます。ローマ人はしつこい。
追いつめられたハンニバルはとうとう毒杯をあおって自死してしまいます。首尾よく強敵を葬ったローマは無理難題をカルタゴに押しつけます。「しまった! ハンニバルは正しかった」とカルタゴの市民が気づいたときはもう遅い。史上まれにみる残虐さで、ローマ軍がカルタゴを地上から抹殺したのは、前146年です。
後世に名将とうたわれた軍人を擁しながら、なぜ、カルタゴはローマに徹底的につぶされてしまったのか。理由ははっきりしています。第一にカルタゴはもともと商人国家で、軍事には関心がうすく、自国の防衛はすべて傭兵任せでした。
第一次ポエニ戦争の敗北で、ハンニバルの父ハミルカルがスペインに活路を求めたのも、本国では「平和主義」が強くて、軍事力の強化が望めなかったからです。第二は国内の分裂です。ハンニバルがイタリアで転戦している間、本国はほとんど知らん顔でした。
国内のローマかぶれの貴族が市民の「平和主義」と結びついて、ハンニバルを追い出してしまったことはすでに述べた通りです。政治家が国際情勢にうとく、軍事をおろそかにすると、どういうことになるか、 カルタゴの運命ほどはっきり示している歴史はないでしょう。わが日本国も他山の石とすべきだと思うのです。
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