東京佐川急便事件が国民の関心を集めたのは、単に巨額な背任事件だったからだけではありません。捜査の過程で、政治と東京佐川急便という一企業と、そして暴力団、右翼団体との関係がいみじくも明らかにされたからです。それを象徴したのが、右翼団体「日本皇民党」による「ほめ殺し疑惑」です。
ただ、この疑惑は当時マスコミが大きく伝え、永田町に激震が走ったわりには、今もなお多くの疑問を残しています。誰が日本皇民党に「ほめ殺し」を依頼したのか、そして活動資金は誰が提供したのか。検察側の冒頭陳述や法廷での証拠調べで明らかにされた関係者の検事調書などから、検察側が描き出した疑惑の構図があります。
1987年10月に行われた中曽根康弘の首相後継を争う自民党総裁選は、年明けから、総務会長の安倍晋太郎と蔵相の宮沢喜一、それに幹事長の竹下登を交えた激しい三つどもえの様相を呈していました。
そんな状況のなかで、日本皇民党が一月から国会周辺を中心に「清廉潔白な竹下さんを総理、総裁に」「金儲けがうまい竹下さんを総理に」などと連呼する街宣活動を展開しました。竹下をほめることで、逆にイメージダウンを狙った「ほめ殺し攻撃」は約九ヶ月間続いた。
日本皇民党関係者は、特捜部の調べに「竹下が田中角栄のもとを飛び出し、経世会をつくったのが引き金で田中が倒れたのに、謝罪もなく、道義に反すると思った」と説明しているが、その思惑どおり「ほめ殺し」によって竹下が受けたダメージは大きかった。
それを証明するように一月から八月ごろにかけ、前自民党副総裁の金丸信や政調会長の森喜朗、竹下派会長の小渕恵三、自民党国対委員長の梶山静六、浜田幸一、浦田勝、魚住汎英らの国会議員らが、本人あるいは代理人を立てて、日本皇民党総裁の稲本虎翁に「ほめ殺し攻撃」の中止を申し入れています。
だが、ことごとく断られてしまったばかりか、「金銭で解決できないか」と現金を提示した政治家に、稲本は「金で動いているわけではない」として一歩も譲らなかったのです。そこで、金丸は「皇民党事件を解決できなければ、中曽根首相は竹下氏を指名しないかもしれない」(渡邉廣康の調書)と渡邉に相談を持ちかけました。
渡邉は稲川会の前会長、石井進に「ほめ殺し」を止めてくれるよう依頼した。石井はその後、稲本と交渉したが、ここで稲本は竹下が田中に病気見舞いと立候補の挨拶をするという条件を提示。結局、竹下は10月6日の朝、東京・目白の田中邸を訪問した。
田中側に門前払いをされましたが、約束を果たしたということで「ほめ殺し」は中止されました。竹下はその後、第十二代自民党総裁と第七十四代内閣総理大臣に就任しています。このほめ殺し疑惑について、竹下は、1992年11月26日に行われた衆院予算委員会での証人喚問で、(暴力団への解決依頼については)心当たりはなかったと答弁しています。
「罪万死に値するが、職を辞するのは、皇民党問題と総裁選、内閣首班指名が連動することを立証することになり、職を辞するわけには参らない」と辞職要求をはねつけたが、「(田中邸訪問が) 街頭宣伝中止に関わるという印象があったが、条件を果たすというわけにいかないので、心の葛藤があった」と述べ、田中邸訪問とほめ殺し中止との関連を事実上認めているのです。
また、稲本の死去後、日本皇民党総裁となった大島竜�Δ蓮�疑惑が発覚した当時、朝日新聞のインタビューにこう答えています。「1987年10月2日、知人の仲介で、故稲本(虎翁)総裁が東京プリンスホテルで石井前会長に会った。前会長は稲本総裁に『竹下を目白(田中角栄邸)に行かせ、病気見舞い、立候補の挨拶、それまでのおわびをさせるから運動をやめてくれ』と申し入れた。稲本総裁は会談後、その日のうちに、部下を引きつれて東京を離れた」
「竹下元首相は十月四日に目白 (田中邸)に行こうとしたが、報道陣がたくさんいたので、びっくりして途中で帰った。うち(日本皇民党)は石井前会長に『約束が違う。上京して、いちからやる」と言った。 前会長は「もうちょっと待ってくれ」と言い、二日後、竹下元首相は約束通り目白に行った」
「国民の手本になるべき者が、親 (田中元首相)が病気で倒れ) 窮地に陥ったときに、議員をみな引き連れて出て行った。火事場泥棒だ。反省を促す必要があるということだ」(いずれも1992年7月28日付朝日新聞)
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