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2023年03月13日05:02

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北方領土が日本に一番近づいた時

橋本政権の特徴は、北と南で懸案解決に向けて取り組み、外交を前に進めたことでしょう。北=北方領土問題、南=沖縄の米軍基地問題です。北方領土返還交渉はあと一歩のところまでいき、基地問題の象徴的な存在だった米軍普天間飛行場の返還合意にこぎつけました。

北の話をします。歯舞色丹・国後択捉の北方4島。北方領土が日本にいちばん近づいたのがこのときでした。橋本龍太郎はボリス・エリツィン大統領との間で「ボリス・リュウ」の個人的に親密な関係をつくりました。

1997年11月、クラスノヤルスク市内を流れるエニセイ川の船上で行われた首脳会談では「2000年までに領土問題を解決し、平和条約を締結することを目指す」という内容のクラスノヤルスク合意ができました。2000年を言い出したのはエリツィンの方だったと橋本氏は明かしています。

それを踏まえて1998年4月18日、静岡県伊東市の川奈ホテルで開いた日ロ首脳会談。会談に同席した丹波實・元外務審議官が寄せた橋本の追悼文によると、橋本は会談の前々日の16日、官邸の首相執務室で丹波と2人だけで1時間ぐらい議論して決めた「川奈提案」をエリツィンにぶっつけました。

もしロシアが日本とロシアの国境線を択捉島とウルップ島の中間にあるということを「平和条約の中で」書くのであれば、別途合意するまでの当分の間、ロシアによる四島の治世を認めるエリツィンは絶大な興味を示し「インチェレスノ」を二度繰り返し、乗りかからんばかりだったと言います。

同席していたヤストロ補佐官が「これはゴンコン方式だ。モスクワに持って帰ると答えてください」と必死で大統領をおさえました。4島の国境線を画定しさえすれば返還は棚上げしてもいいという妥協案でした。

首脳間ではほとんど合意寸前までいっていたのです。ところがこのあと7月の参院選で自民党は敗北、橋本氏は退陣に追い込まれました。エリツィンも体調の不良から政権末期の様相を呈し、翌1999年には辞任したのです。政権の混乱がまねいた不幸な結末だったのです。

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