■お焚き上げの炎が、見事な「龍」の姿に 奇跡の一瞬捉えた写真に反響「龍神様降臨」「圧倒されます」
(Jタウンネット - 02月05日 19:10)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=241&from=diary&id=7289406
中国隠避思想の不世出の大家、わが師佐藤六龍から教わったことで最も大切なことは「曰く言い難し」でした。それ以上の詮索をするなということです。
そうするとクリアーに見えてくるものがあるという教えでした。
師は、仏の加護などの宗教的なことを、積極的に否定しておいででした。
私の立場は、明かしませんが、この「龍神様」の件では、こういうことを思い出します。
水木しげるの漫画ですが、『ねずみ男の冒険』という短編集があります。水木しげるが『ゲゲゲの鬼太郎』を書く前、ねずみ男が放浪していろんな悪さをするという、単独登場の短編マンガを集めたものです。
どの作品も、非常に面白い。彼が悪役として描かれているからです。
(『ゲゲゲの鬼太郎』も、少年向きの勧善懲悪の話になってから、面白くなくなったと思います)
ねずみ男は、あるとき、妖怪に取り憑かれて困っている男に、取り憑いた妖怪を払うという触れ込みの口から出まかせの呪文を教えます。ところが、その呪文は効果があり、妖怪は男を離れ、ねずみ男に取り憑きます。ところが、ねずみ男は自分が作った呪文を忘れてしまったので、妖怪を払えなかったという話です。
みなさんが婉曲に指摘される通り、阿含宗が同じような写真を信者獲得のために使っています。確かに、モータードライブを使って何千枚も撮影してその中から「龍神様」に見える写真を選ぶということもあり得るかもしれません。しかし、それがインチキだとしても、「龍神様」がインチキだということになりません。ねずみ男の呪文のようなものかもしれません。
新興宗教には多くの悩める人が集まります。
(新興宗教の源流である大本の専従職員は「ここに来る人はみなさん病気ですから…」と堂々とおっしゃっているそうです)
だから、そうした人を救うために「龍神様」が姿を現されたと解釈することも可能です。その場合は、阿含宗がどうだというのは、関係がありませんね。だから、本当に「龍神様」がいらっしゃるか…という大問題を曰く言い難しとして保留すると、宗教が引き受けている一種の福祉が見えてきます。だからこそ巨額のお布施をとったり、政治に関与してはいけないのでしょうが、それは別の問題として。
大体、私の経験でいうと、超能力、倫理道徳、頭脳は、相互に無関係なものです。そして、倫理道徳の領分は複数あります。
決して肩を持つわけではありませんが、阿含宗の桐山さんがある面で何らかの非があっても、それは、他の面と無関係です。
何かを分析しようというのは、何かを肯定したいというあさましい思考です。
自己の存在証明がそうです。できないでしょうし、仮にできたとしても何ほどのこともありません。
生きているだけで十分。だから、その大義名分まで欲しがるのは、欲が深すぎます。
ただ一つ、これだけは言えます。
信じる理由を探ることは、信じる(存在を肯定する)ことではありません。
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