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2021年11月12日07:27

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雪の日の惨劇

満州事変後から政情の腐敗、堕落が始まり、それを憤って国の革新を叫ぶ将校が単独で、あるいは民間の右翼団体と手を結び、三月事件、十月事件、血盟団事件、五・一五事件、神兵隊事件、士官学校事件などを起こしました。そして昭和10年8月の相沢事件以後、皇道、統制両軍閥の相剋は激化していきました。

そのころ軍部の中に、二つの派閥が生まれ、互いに敵視しあっていました。皇道派・真崎甚三郎大将、荒木貞夫大将、柳川平助中将、秦真次中将、小畑敏四郎中将、山岡重厚中将、山下奉文少将。統制派・南次郎大将、松井石根大将、渡辺錠太郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将、橋本虎之助中将、永田鉄山少将、東條英機少将です。

事件は相沢三郎中佐が、統制派の永田鉄山少将を殺害したものですが、彼は永田少将が皇軍の統制を乱す元兇であると一途に思い込んだために起きました。この事件は、石原莞爾が仙台の四連隊長から参謀本部作戦課長に就任した日に起こったものです。

事件の当夜、石原莞爾の私宅に、某国公使館員が相沢事件に関連し、日本陸軍の派閥の真相をさぐるために現われた。石原莞爾はこれに対し、「年齢四十歳を過ぎれば、家庭のことを考えて行動するものだが、相沢中佐は、一途に国のためと思い上官を殺害した。わが皇軍は健在です」と言ったそうです。

並みの将校や政治家だったら、「気が狂った」とか「本当に困った」など、弁解じみた言葉に終始するはずですが、彼は相手の意表をつく言葉で、日本陸軍の健在を伝えたわけです。相沢が拘置されてから、石原莞爾に、「来て下さい、申し上げたいことがあります」という申し入れがありました。

石原莞爾が面会に行くと、相沢は陸軍部内の統制を心配している点を強調し「今後、日本陸軍の危機を救うことのできる人は、石原さんのほかにはいません。どうぞ青年将校のことをお願いします」と言う。

石原はこれに対し、「それが君たちの間違いなんだ。この石原に青年将校を頼むということが間違っている。君らのその考えを改めるのが、今日の陸軍にとってもっとも重要なことである。いいか、軍は天皇の統率し給うところである。それを忘れてはならん」と前置きして将校の心得べき点を、かんで含めるように言い聞かせました。

その後、相沢が石原に特別弁護を依頼しましたが、これはいずれの軍閥にも属しない純正な軍人である石原莞爾こそ、自分の心境をもっともよく理解してくる人であると信じていたからでしょう。石原が相沢の弁護を承諾したことを知った皇道、統制の両軍閥は非常に驚き、彼らは策謀を行なったようです。

相沢公判が近づくと、相沢の代理と称して皇道派・真崎甚三郎大将の同調者を装う男が石原莞爾のもとに現われ、弁護人の依頼を取り消すと申し入れました。石原莞爾としては本人が取り消すというならば、そうすべきであるとして、弁護には立たなかったのです。

ところが、処刑直前に訪ねた石原莞爾に対して相沢は、「石原さんに弁護していただきたかった。それが私の唯一の願いだった。石原さん、どうして弁護してくれなかったんです。私がどうなるかは問題外です。ただ弁護していただきたかったのです」「君の話を聞いてワシも驚いた。君の代理人と称する男が来たけれど、あれは……」と石原が言う。

相沢も驚いて、「事件の前までは、私に向かってなにかと軍の不統一を憂い、真実らしいことを言っていた人たちがいました。しかし、私が事件を起こしてからは、用事や話したいことがあるので、手紙をいくら出しても返事もくれません。こうして面会に来てくれたのは、石原さんだけです。哀しいことです」

相沢の公判は第一師団軍法会議の法廷において、裁判長佐藤正三郎少将、検察官島田法務官、弁護士鵜沢博士、特別弁護人満井佐吉中佐で行なわれ、満井中佐が被害者の永田鉄山少将と統制派に陰謀あり、として痛烈に暴露しました。翌25日には皇道派のリーダー真崎甚三郎大将、前陸相の林銑十郎大将、また統制派の橋本虎之助中将らが証人に立った。

明くる26日、二・二六事件が勃発したため延期となり、以後は公表せず秘密のうちに審議され、死刑が確定した。これに対し石原莞爾は、「行為そのものは別として、彼の心情には心から同情している。相沢は軍閥を倒すことを念願し、純真のあまりあの行動に出たが、結果的には軍閥ともに操られたのである」といっていたのです。

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