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2021年08月20日05:16

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伊達政宗への従者の鬼

伊達政宗は、東北地方をおさめた戦国大名です。豊臣秀吉の天下統一にしたがったが、秀吉の死後は、徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは家康側について戦いました。のちの仙台藩の基礎を築きました。伊達政宗は、出羽の国(今の山形県)の戦国大名・伊達輝宗の子として生まれました。幼くして、病気のために右の視力を失いました。

母親からの愛情は得られませんでしたが、父からは、知恵と勇気をあわせもった武将になると、大いに期待をかけられ、かわいがられました。若くして家を継ぐと、政宗は積極的な性格になり、周辺の大名と戦いました。そして1590年、東北地方のほぼ全土をおさめる大大名へと成長しました。

天下統一を目前とした豊臣秀吉は、政宗に家臣となって、北条氏をたおすための小田原攻めを手伝うように求めてきました。悩んだ政宗は、領国を守るために秀吉に従うのもやむを得ないと、決断しましたが、小田原への到着が遅れました。これが秀吉は怒りましたが、政宗の堂々とした態度が秀吉にみとめられ、政宗は許されました。

秀吉の死後、政宗は徳川家康につきました。そして関ヶ原の合戦のとき、西軍の上杉景勝の重臣の直江兼続と戦いました。東軍の徳川方が勝利すると、仙台に城を移し、のちの仙台藩の基礎を築きました。政宗は1613年、家臣をヨーロッパやメキシコへ送り、貿易を計画しましたが、うまくいきませんでしたが家臣には恵まれていました。

それが、片倉小十郎です。本名は景綱です。景綱は米沢八幡宮の神主の子として生まれたが、若くして正宗の父・輝宗に目をかけられ、小姓として使えることを許されました。以来、片倉家は武家として栄え、当主は代々小十郎を名乗っています。ただし、歴史上小十郎といえば景綱のことを指します。景綱にさらなる転機が訪れたのは19歳の時です。

伊達家の重臣・遠藤基信の推挙で、9歳の政宗の近侍として登用されたのです。以来、生涯を通して正宗に使えましたが、当時の伊達家の領地である奥州(東北)は戦乱が絶えない国でした。領地を治めるのに手を焼く政宗の補佐役は苦労の連続でした。

領内だけでも問題は山積しているところに、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉が小田原参陣を迫ってきたのです。相手は強敵だが、その軍門に下った覚えはない。プライドがじゃまして迷う政宗に小十郎は恭順の姿勢を見せ、伊達家を守ったのです。

また、関ヶ原の戦いの前哨戦となった最上氏と上杉氏の戦いでは、同じく東軍であり、縁戚関係もあった最上氏をすぐに助成せずにまずは傍観して、両者が争い、上杉氏が疲弊したのを見計らって攻めるように政宗に進言した。身内である最上氏が討ち死にするかもしれないリスクを顧みず、お家大事を貫いたのでした。

小十郎の主君・政宗は幼いころに天然痘を患った。その影響で右目は視力を失い、眼球が異様に突き出た面体です。それが原因でいつもうつむいているような暗い性格だったという。そんな政宗の性格を変えようと、小十郎がやってのけたのが、身の毛もよだつようなことだった。なんとその突き出した右の眼球を小刀でくり抜いてしまったのです。

それを機に政宗は精悍な気質となり、力強い戦国武将に変身していったといわれています。この他にも、小十郎の主人思いを示すエピソードは数え切れない。政宗初陣の時のことです。不慣れがゆえに敵陣に深く入り込んでしまった政宗を救うために、「我こそ政宗なり」と敵の前に自らおどり出て、絶対絶命の危機から政宗を救っています。

まさに主君あっての我が身という姿勢を貫いています。その献身ぶりは、従者の鬼といっても過言ではありません。その最もあるエピソードが、政宗より先に自分に子ができた時のことです。小十郎は、「それはまかりならぬ」と、妻の腹に刀をあて、子を殺そうとしたというのです。

その善し悪しはともかくとして、常に政宗を補佐して伊達家の繁栄に努め、戦国の世から天下泰平の江戸時代まで存続させた功績は絶大なものであることは確かでしょう。ちなみに伊達政宗の父である伊達輝宗と織田信長は友好関係にあったと言います。それは輝宗が信長に鷹を送っているという事実があるからです。

「朝夕の食事はうまからずとも褒めて食うべし」伊達政宗

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