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2021年08月16日05:20

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明智光秀の陰謀説

明智光秀は、美濃の国(今の岐阜県)をおさめていた守護・土岐氏の一族ですが、光秀が生まれた頃はすっかり衰えていました。父の死後、光秀は越前国(今の福井県)の朝倉氏に仕えました。このとき足利義昭と知り合ったとされています。光秀は、足利義昭を織田信長に紹介し、その後は信長に仕え、信長の天下統一事業をよく助けました。

信長も頭のよい光秀を信頼し、重く用いました。1582年、中国地方の毛利氏と戦っていた豊臣秀吉を助けるために、信長が安土城を出発しました。光秀にも出陣が命じられましたが、このとき光秀が狙ったのは、信長の命であり、天下をとることでした。光秀は、京都の本能寺に泊まっていた信長を襲いました。

わずかな兵しか連れていなかった信長は、燃え落ちる本能寺で自殺しました。光秀は、豊臣秀吉や柴田勝家らの敵討を恐れ、守りをかためようとしましたが、あてにしていた大名たちは味方をしてくれませんでした。中国地方からすばやく引き返した秀吉に、光秀は山崎(京都府)の合戦で、たちまちのうちに敗れました。

近江の国(今の滋賀県)に逃れる途中、光秀は農民に竹やりで殺されました。ちなみに山��の合戦「天王山」で実際に戦ったのは豊臣秀吉と明智光秀です。これが天下分け目の戦いだったので使用されるようになりました。

陰謀説を語る事件は数々あります。「本能寺の変」における、明智光秀に対する豊臣秀吉や徳川家康の策謀説です。明智光秀の味方になるといっていたことも暴かれていますが、これは陰謀論として切り捨てられています。多くの人が、豊臣秀吉を庶民派の英雄に、主君の織田信長を襲撃した明智光秀を、裏切り者にしたいからでしょう。

朝廷説、信長が朝廷を滅ぼすかもしれないと危機感を抱き、明智光秀をけしかけて織田信長を殺そうとした説です。ただし、信長と朝廷との間は協調関係にあり、互いを抹殺しようとする緊張関係はなかったといわれています。

足利義昭説、備後に亡命していた足利義昭が、その権力を奪い返すために、かつての家臣だった明智光秀に織田信長討伐を命じたという説です。徳川家康説、織田と徳川同盟を結んでいたが、実質的に従属的な関係にあった。信長に誅されることを恐れた徳川家康が明智光秀を利用して、織田信長を暗殺したという黒幕説があります。

羽柴秀吉説、織田信長の死の報をいち早く入手し、中国大返しの手際があまりによかったことから、事前に本能寺の変を知っていたのではないかという説があります。イエズス会説、イエズス会が日本の政権を奪おうともくろんだという説です。だが、この黒幕説には無理があり、今では説を提唱した本人も否定しています。

長宗我部元親説、本能寺の変の前、織田信長は四国征伐を企図していました。そこで長宗我部元親は義兄で明智家臣の斎藤利三に働きかけ、本能寺の変を起こさせたという説があります。

江戸時代の軍記物で頻繁に語られているのが、明智光秀が織田信長に対して何かしらの恨みを抱いていたという説です。この説は羽柴秀吉が本能寺の変の4か月後に発表した顛末書に描かれていたものが独り歩きしたもので、この「怨恨説」にちなんで、さまざまなエピソードが創られています。

「明智軍記」には中国へ出発する明智光秀に対し、織田信長が出雲・石見を与える代わりに丹波・近江の所領を没収するエピソードが記されています。また「織田軍記」には、織田信長が明智光秀の生母を見殺しにしたという逸話もあります。さらに織田信長が明智光秀を折檻したという説もありますが、いずれも創作の域を脱していないのです。

また怨恨説のほかにも、明智光秀に天下取りの意欲があったという説があります。これも羽柴秀吉が顛末書で広めたものですが、確たる証拠はないのです。そして近年、怨恨説や野望説に代わって主張され始めているのが、織田信長の四国政策転換への反発説です。明智光秀は四国の長宗我部元親との取次役を務め、友好関係を築いていました。

ところが織田信長は長宗我部家を征伐する意向を示し、四国征伐軍を編成した。これにより明智光秀の面目は丸つぶれになり、出世の見込みがなくなった明智光秀が自暴自棄になって謀叛を起こしたという説です。ただし、いずれの説も確証はなく、本能寺の変はいまだ多くの謎に包まれているのです。

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