これは、知りたいことではなく、知っていることですが…
私は、最初に教職に入ったときに、いろいろと「劣等生マーカー」を発見しました。
やがて誰かに伝えたい…と思っていましたが、伝える人がなさそうです。もう、教授技術の時代ではないからです。
その中の一つに、「他人と自分は同じだと考える」というのがあります。
こう述べる人は、必ず、アフォです。
なぜか。
日本教とは何か…という議論があります。日本教は、天台本覚思想でしょう。これがわかってから、いろいろなことがわかるようになりました。
本覚とは、
衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなる、ということです。
しかし、ちょっと考えればわかりますが、「それなら修行する必要はない」「煩悩が仮の姿なら、酒や女性に溺れても、仏になれる」という解釈を生み、批判されてきたところです。だが、鎌倉仏教も本覚思想を取り入れないと布教出来なかった、だから取り入れたというのが本当のところです。
(浄土宗は自分を本覚思想ではないといっていますが、詭弁です。)
これが日本教です。
これを受け入れると、勉強はどうなるか…
私が十年落ちのポンコツの軽に乗ってレースに出るとします。
当然、ボロ負けです。
ところが、運転している私は仏。優勝したドライバーと同じです。
ポンコツの軽のせいで負けた…ということになります。
正しくは、
ポンコツの軽しか買えない、自分の甲斐性のなさのおかげで負けた、自分の運転技術のなさのために負けたのに。
だから、この「他人と自分は同じだ」という「本覚思想」の持ち主は、テストの成績が悪いと、技術を知らなかったせいにします。自分のせいではなく、車のせいです。
ということは、自分の思考ではなく、技術です。
マニュアルとは、いかに思考を停止するかという技です。そしてそれが学問とは正反対なのは言うまでもありません。
大体、マニュアルが該当してしまうことなど、文系では稀にしかないですから。
…今、成績付けをしていますが、「やっちゃん先生のおかげで、初めて授業で頭を使って考えて楽しかった」というレポートをみて、うれしかったです。
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