いろいろ、問題点を挙げたいと思います。
1 別に恥ずべき死に方ではない。
どういう死因で死ぬかはわかりませんが、病院でスパゲッティ状態になって死ぬよりも、こちらの死の方がいいと思います。
朝になったら目が覚めなかったという死に方は、病院よりも自宅の方が可能そうですし、私の個人の考え方ですが、子どもなどに手を握られてなくなるのは結構なことです。だが、そうでなければいけないと思うのは、女々しい印象があります。
未婚の人もいます。友人にもいます。これからはそうではないでしょうが、私の世代の独身者は自業自得です。
どこかで、煩わしく苦労が多い結婚生活を見切っていたから独身を通した人が多いからです。
しかし、そういう人が払う「孤独」という代償はそれほど大きなものでしょうか? 心の持ち方です。寂しい人は、子どもがいても「あまり見舞いに来てくれない」と不満を抱くのではないでしょうか。
難しいことですが、子どもであっても他人です。他人に期待してはいけませんね。
2 コミュニティなどという幻想を抱いてはいけない。
一度、慢性硬膜下血種(頭をうって頭蓋内に出血しました。その、一番たちのいいもの)で入院した病院は、看護師の対応が酷かったです。しかし、アルドステロン症で検査入院した医科歯科大は、とってもいい対応でした。
そのことを思い出します
病院は、選べます。
だから硬膜下血種のときは、転院も考えました。
だから、選ぶことができない、親族関係や住んでいる地域にコミュニティがあって、それが、天然自然に素晴らしいものだと考える考え方は、ぼくには理解できません。
東須磨小のイジメ教員が問題になりました。
あの事件が報道されて真っ先に思ったことは、「田舎だから起こったこと」です。コミュニティが密だからこそ、もっといえば、被害者が同僚という名目で、コミュニティの中に入れられてしまったからこそ起きた事件に間違いがありません。
3 跡片付けが大変であり事故物件になるから、亡くなったらわかるようにするべきだ。
見回りを望んでいない人にも見回りが必要なのは、この一点だけです。
4 祭祀はいりません。
前にも話したことがあります。理由を簡単におさらいします。
a 佛教もキリスト教も対応する理論がない。
たとえば、子どもが墓を建てないと成仏しない…というお経はありません。キリスト教も、子孫が熱心ならば、本人の罪が許されるなどという話は、聞いたことがありませんね。
b 人はほとんど無縁佛である。
武蔵小杉の浸水が問題になりました。
私は、文京区の台地に住んでいますが、ということは、人骨の上に家を建てているようなものです。昔は死者を敷地に葬りましたから。もちろん、誰も墓参りに来ません。
また、自分の八人いる曾祖父母の名前を全部言える人など稀です。
おじいさんが三男坊の分家だというような場合、本家は死に絶えて無縁化しているというケースも多いでしょうね。そういえば、ぼくも母方の祖父の実家を知りません。
孤独死したくない、コミュニティが必要だ、墓を建ててほしい…
は結局、人並みでいたいということでしょう。
この考えが危険なのは、
「老後に二千万円必要だ」
という話になったら、それが人並みだと納得してしまうのと同じだということです。
孤独死が問題になるのは、介護行政に問題があるからです。
老後二千万は、明らかに政治が悪いからです。
僕らは、自民党の犬ではありません。
しかし、ルシフェールの手先のように、甘んじて(というよりも自ら進んで)犬になる人もおります。
怖ろしいことです。
年間3万人が孤独死…現場向き合う女性業者が“対策”呼びかけ
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=145&from=diary&id=5851445
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