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2018年06月03日15:08

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岡山探訪 第340回 幸山城跡(前編)

二か月前に総社市(清音)の「備中福山城」を登城したが、今度はその「福山」山頂から北にせり出し尾根状に築かれた「幸山城」(こうざんじょう)を登城した。
しかし、訪れた日はすでに一か月を経過している。
先月はかなり多くの史跡や観光地を探訪した為、日記紹介がやっと今になった。

・TOP左画像
「幸山城」全景
左側(↓)が幸山で右側が福山。

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↑(TOP中画像)
「ふれあい広場」
ここのグランド南側から登城を開始。
ここは幸山の北側になる。

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登城入口

・TOP右画像
「幸山から福山へ」のハイキングマップ
福山は標高302mだが、幸山の山頂は162m
それぞれ山頂の城跡へのコースが図示されている。

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すぐに石垣を発見!

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堀切を思わせるような山路が続く。

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続いて竹林地帯を通る。

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「幸山城」と「天神社」方面の分岐点

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ここにも石垣が残る。

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お薬師様

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「幸山城」と「福山城」方面の分岐点

さて、「幸山城」の歴史に触れてみよう。
鎌倉期の後半で延慶年間(1308〜1311年)前後に、庄資房によって築城。
応永年間(1394〜1428年)には、石川氏へと城主が替わる。
戦国時代には備中の覇者・毛利氏と三村氏が手を結び、石川氏も三村氏の縁戚としてその一翼を担う。
永禄10年(1567年)の明善寺合戦(三村氏と備前宇喜多氏との合戦)では、「幸山城」の石川久智は三村氏に味方して参戦するも、備中勢は総崩れとなり久智は戦傷が元で死去する。
元亀2年(1571年)、山陰の尼子氏が備中に南下し「幸山城」へ攻め寄せ、城主石川久智の子・久式は毛利勢として九州へ出陣中で不在だった事から尼子氏に屈する。
しかし、毛利氏の援軍を得て「幸山城」を奪還するが、やがて毛利氏と三村氏が不仲となる。
毛利氏が三村氏の「備中松山城」を囲み落城させると三村元親は切腹し、救援で援軍を送っていた久式も自刃した。
その後、天正3年から清水宗治が「幸山城」に入るが「備中高松城」に居を移す。
秀吉の「備中高松城」水攻めの際は毛利軍の拠点となっている。
慶長4年(1599年}宇喜多秀家の城代として岡家利の与力である湯浅九郎兵衛尉、岡平次郎の2名を置く。
慶長11年(1606年)に廃城となる。

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まもなく「幸山城」へ
つづく
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